エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 名前のない節目の日。 2022年3月31日

2022年3月31日

節句、正月、卒業、何でも良いのだけれど、人生にはいろんな「節目」がある。大人数が一斉に動くようなことには、伝統的な「儀式」や「形式」が定まっていて、名前がついている。その方が都合がいいからだろうね。

今頃は、もう卒業式も終わっているし入学式もまだ先だ。学校を卒業した人たちは、どんな期間なのだろう。ただ春休みを謳歌しているかもしれないし、卒業旅行に出かけているかもしれない。なかには引っ越しの準備をしている人もいるかも知れないね。一人暮らしを始めるために。

これから一人暮らしを始める。となると、本人にとっても家族にとっても一大イベントだ。子供が離れて暮らすのは、成長の現れとして喜ぶことでもある。けれども、やっぱり心配だとか寂しいだとかの感情も伴うだろう。と親目線。本人にしても、不安や期待、ワクワクドキドキで、どこかで少し寂しい気持ちもあるかもしれない。

そんな一大イベント。けれども、儀式も形式も存在しないし、名前もない。家庭からの卒業とでも言うのだろうか。

名前がつけられていなかったり、儀式のテンプレートが無いのはしょうがない。子供が巣立って一人暮らしを始めるというのは、そんなに伝統的なものじゃないからだ。ある一定の時期になったらほとんどの人が通るイベントではない。

例えば江戸時代。江戸の町には多くの単身者が住んでいた。いわゆる一人暮らし。けれども、それは自分で意を決して上京したのであって、それが恒例行事なのかというとそうでもない。ごく一部の人だけの話。江戸という遠く離れた地に行くから一人暮らしをしているだけ。生活の場が移動しなければ、そのまま実家ぐらしをするわけだ。

子供の巣立ち以外にも、テンプレートの無い節目というのはあるのかな。ぱっと思いつかないけれど、なんとなくありそうだ。ちょっと気分がいいだけだったり、ちょっといいことが有ったり。些細なことかもしれないけれど、それが当事者にとっては大きな転換点だったりする。そんなことだってあるだろう。

みんながせーので行うことじゃない。ひとりひとりが違ったハレを体験する。

そんな時には、ハレを演出してハレを体感するのだ。心の動きを、具体的な事象に置き換えてみる。そうすることで、心を落ち着かせる。地に足をつけるような、実感を生み出す。そんなことを演出によって体感させる。

この文脈で活躍してきたのが、食事である。ことに日本人はその傾向が強いらしい。海外の事情をよく知らないのだけれど、日本に関してはそうだろう。ハレの食事だ。

ハレの食事は、高級食材や高級レストランじゃなくて構わない。いつもと違うもの。できれば、いつもよりも少しだけ手をかけたものが良い。それが特別なのだ。入手が大変な食材。古い時代は山に入っていったり、海にでかけたりして手に入れた。そういう特別な行動ね。餅をつくとか、豆腐を作るとか、手間のかかる行動。それがハレを演出した。

現代になって、日常の食事が多様化した。そのせいで、ハレの食事を毎日体験してしまうことになった。かつては特別だった豆腐は、いつでもスーパーに並んでいるし、鯛やヒラメも売っている。その反動で、ハレのための食を扱う産業が必要になったのかもしれない。掛茶料理むとうもそのひとつなんだろうな。

だけど、本質はそこじゃないんだよね。やっぱり。いつもよりも少しだけ手をかける。時間を費やす。そういう行動がハレをハレに仕立てる。そんな気がするよ。

今日も読んでくれてありがとうございます。これじゃ、うちの店はいらないみたいな展開になってしまうか。ニーズがあるから存在しているのだ。と思う。ハレをハレとして仕立てる。良いね。この表現気に入った。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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