最近、娘が三輪車に乗ることを楽しんでいる。もしかしたら、一番最初に自分で運転する乗り物は三輪車だったという人もいるよね。娘にとってはそうだ。ほかには、車の形をしたもので足で地面を蹴って前に進む乗り物。あれは、なんという名前なのかな。
父ちゃんも乗ってみて、と言われても乗れないよなあ。サイズが合わない。そう言えば大人用の三輪車は見たことがない。実際にないのだろうか。あったとしても、日常で使う必要がない。自転車に乗れるようになってしまえば、三輪車の出番はなくなるからね。使い勝手では自転車に及ばない。
やがて使わなくなった三輪車。三輪車は三輪車なのに、なんだか「自転車に乗れるようになるまでの繋ぎ」だとか「代用品」とか「練習道具」といった具合に捉えているかもしれないよね。三輪車には三輪車の楽しさが有っても良いのだし、実際にあるのかもしれない。娘はキャッキャと楽しんでいる。数樹年前だが、ぼくも三輪車に乗ることそのものがとても楽しかった印象がある。
三輪車しか乗れなかった頃は、三輪車特有の楽しさを感じていたんだろうな。
けれども、いずれは使わなくなる乗り物だ。
そういう捉え方をしている人のほうが多いかもしれないね。もしかしたら、使わなくなることを前提に商品設計をしているかもしれない。だとしたら、とても特異な存在に思える。
商品を販売する時、それが道具であっても消耗品であっても、使い続けることが前提だ。壊れてしまったら、また新しく代替品を購入する。テレビが壊れたら、やっぱりテレビかそれに近いものを手に入れる。お茶が切れたら、まあお茶を買うんだろうな。
三輪車は、乗らなくなる。昔はギターを弾いていたけれど、今は使わなくなった。というのとは、ちょっと違う。明らかに使わなくなることを前提として使っている。ギターを卒業してベースに移行するためにギターを練習するという面倒なことはしないだろう。ここがとても興味深い。
使わなくなることを目指している商品ってそんなに無いのじゃないだろうか。自転車の補助輪とか、歩行器やおしゃぶり、補助が付いている箸、幼児向けのものならたくさん思いつく。大人向け、中学生以上とかになると、途端に思いつかなくなるんだ。
人間の成長がポイントなのかな。成長するまでの途中で必要になるけれど、一旦出来るようになってしまったら使うことがなくなるというようなものだ。つまり「使わなくなることが良いこと」としてデザインされている。
小学校や中学校はモノではないけれど、広義で捉えれば似ているのだろうか。学校や学びのサービスは近いものがあるかもね。マスターしてしまったら用がなくなる。参考書や教科書は。うん。ホントなら要らなくなる。完全にマスターすれば。しないままに放り出すか、大人になってからまれに見返すとか。あんまりないけどね。歴史参考書はめちゃくちゃ役に立っているけれど、たべものラジオをやっているから使っているだけかもしれないな。
「使わなくなることが良いこと」というデザインコンセプトは面白いかもしれない。手放すことで自立を促すことに繋がる。動画やニュース配信のように中毒性を持たせて手放させないモノの反対側。手放して自立したら、自らの力で創造することが出来るようになる。そういうモノ。それでいて、環境負荷が低いモノ。できればリユース可能ならなお良い。
今日も読んでくれてありがとうございます。これめっちゃ難しいじゃん。一でも、依存から自立への道筋を作ることになるかもしれないよね。そういうデザイン思考でモノづくり。真剣に取り組んだらなにか出てくるかな。