宿題について、もう少し続けて書いてみようと思います。最近、意外にも反響があるんだよね。このエッセイ。とは言っても、コメント欄がないので知人ばかりなのだけど。
いろいろ話をして、考えていたら小学校は宿題いらないんじゃない?という、ちょっと極端に思える結論にたどり着いちゃったんだよ。
まず、体験の話をしよう。COTENラジオを聞いていて教育についていろいろ考えちゃったなあ。というところから、アン・サリヴァン先生をふと思い出した。これもまた、COTENラジオのヘレン・ケラーのシリーズのことなんだけど。アン・サリヴァン先生は体験したことがあれば、それは子供が理解できるというようなことを言っている。逆に、体験したことのない事柄はなかなか理解が深まらないとも解釈できそうだ。
ぼくらだって、たぶん教科書の中だけの教育で育ったわけじゃないと思うんだ。実際に手で触れて、耳で聞いて、鼻でかいで、目で見て、口で味わって、そうやって五感で感じ取ったものがベースにあるからこそ物事を理解していく。ケーキを食べて、ぶどうを食べて、羊羹を食べて、それらについて「甘い」という言葉が伝えられる。だけど、ぶどうは「酸っぱい」も入っているよね。ケーキだって、フルーツや他の味の要素が混ざっているはずだ。だけれども、複数の事例を体感してみて「甘い」とか「おいしい」とかの言葉を聞くことで、複数の要素の中から「甘い」を抽出して理解していく。たぶん、「甘い」を理解するために砂糖をなめて覚えた人は少ないと思うんだ。
大人になっても、ぼくらは同じことをしているんじゃないかな。もちろん、本や人から伝達されて理解していくこともするし、言葉を使って思考を巡らせることもする。するんだけど、しっかり理解して自分のものにして使いこなせるレベルになろうと思ったら、どこかで体験して体感するプロセスをやっているんだと思うんだよ。少なくともぼくはそうだなあ。
というようなことをダラダラと話していたら、子どもたちの「体験」の時間って大切だよねってことになった。その体験が学習塾でもピアノ教室でも良いのだけれど、興味が最高潮のときにハマる可能性って限られるでしょ。他にも体験したいことがたくさんあるかもしれないし。特に、大人になってからは体験しにくい事は子供のときに体験しておいたほうが良いのではないかと思うんだ。
雨でびしょ濡れになりながら、水たまりで遊ぶ。そんなこと、大人になってからはなかなか出来ないじゃない。知識がある状態だと、先にわかったきになっちゃうからやらない。そういうことが往々にしてある。だから、わからないうちに経験しちゃうの。そうなると、大人にとっては些細なことでも、子供にとっては驚きや感動につながることもあるし。
ちょっと脱線するけれど、そういう意味で小学生の子供には「お小遣いは全部使え」というようなことを言っている。時間やお金や労力といったコストに対して得られる感情的なリターンは、おそらく子供のほうが大きいからね。大人だったら、5,000円くらいはすぐに使えちゃうでしょ。飲み会に行ったらすぐに。それはそれで良い時間になるだろうけれど、小学生にとっては5,000円でできる体験ってもっと大きいような気がするんだ。個人的な経験でもそう思うんだけど、どうです?
だからね。小学校中学校くらいは、宿題を必要最低限にして体験する時間をたくさんとったほうがいいと思ったわけだ。必要な学力は、学校の授業だけで十分に伸ばすことが出来る。授業を楽しみながら学ぶ環境さえあれば、その時間内で十分ね。義務教育のカリキュラムは優秀だから。昨日も書いたけれど、小学生のぼくは宿題ではなくて授業で学んだことを中心に学習していたのだから。それで十分。宿題なんかは学んだことを体験に置き換えられるものだったら面白いかもよ。逆に、体験してきたことを授業で学ぶとか。
山に登る。公園で遊ぶ。工作をする。料理をする。自転車に乗る。ちょっと冒険する。なんでもいい。子供同士の交流だけじゃなくて、大人と一緒に何かをするのも良いね。世代を超えたコミュニケーションというのは大事だよ。
とまあ、飲みながらではあるけれど、こんな話になっていったわけです。大人がやることは、時間を作り出してやることと、危機管理くらいかな。
今日も読んでくれてありがとうございます。義務にするとやらなくなる。ゲームばかりしている子供に「今日中にレベル○○まであげなさい」なんてことを言うと、数日でそのゲームをやらなくなってしまうそうだよ。「やっていいよ」という環境が必要なんだろうね。