エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 思考しながら書いてみる「研鑽」 2021年11月23日

2021年11月23日

久しぶりに、書きながら考察をしてみようと思います。今日のお題は「研鑽とはなにか」。
というのも、商工会議所青年部(YEG)の大目的がこれだから。わかっているようでいて、意外とちゃんとわかっていないんじゃないかな。

辞書に書いてある文言をそのまま引くと「学問などを深く極めること。研究」と書いてある。これまたわかったようなわからないような。漢字の意味で言えば「研」は研ぎ澄ませる、磨くというような意味だし、「鑽」は穴をうがつというような意味だ。研ぎ澄ませつつ深く穴を穿つ。そんな感覚で良いのかな。

研鑽を積むためには、いくつか段階があるのかなあ。学問などをって言っているのだから、「学ぶ」を軸に考えてみるか。学ぶっていうと、ひとつはインプットだよね。何からインプットするか。本を読むってのはもちろんだし、それから体験とか経験もそうなのかな。人にあって聞くということもあるだろうし、旅に出て見たり触れたり感じたり。目耳鼻口肌などの五感全てで触れられる情報は全部インプットってことか。

インプットしたからって、それが即ち学びになっているかというとそういうわけじゃないだろう。それはそうだ。深さがないもんね。そしたら。インプットしたものをどうするんだ?解釈か。解釈って、なんとなくストーリー付けみたいなイメージが有るんだよね。情報と情報をつなげたり、自分自身とその周りの状況を紐付けたりしてさ。そうすると、なにかしらのストーリーみたいなものが見えることがある。究極にシンプルなのは三段論法なんだろうけど。それだけじゃないくらの複雑さや深さがあることの方が多いかな。

解釈の仕方って、ホントに人それぞれだよね。同じ情報をインプットしても、全く違った視点で解釈をする人によく出会う。目の前の情報が同じだとしても、それ以前にインプットしてきた情報が違うんだから、当然と言えば当然だ。
解釈の仕方に色んなバリエーションがあるということは、身体にインストールしておきたいよね。それこそ、同じ事柄を違う人の目線で見てみるとかしてさ。そういう意味では、書籍って便利だ。例えば、昔からある議論で「私とはなにか」を考えるとするじゃない。そうすると「我思う故に我あり」というデカルトの方法序説や、釈迦の真理の言葉や仏典、聖書、フロイト心理学なんかを横断してみる。マスターするなんてことは難しいけれど、超訳くらいの本ならなんとか読めるんじゃないかな。で、それぞれの著者の解釈の違いや、それに至る思考回路を垣間見ることができる。とまあ、そんな感じか。

いくつかの思考方法をインプットしていくと、自分自身の思考方法が随時深まっていく。今までも部分に積み上がることも有るだろうし、破壊していくことも有る。個人的には、破壊された瞬間が好きだったりするんだけど。これはどうでもいいか。
だけどさ。知ったところで、思考方法がすぐに使えるようになるかって言うと、そんなことないよね。釈迦と同じ思考方法が出来たら、って思うと出来そうもない。だから、インストールという作業が必要だよね。これってどうするんだ?座学でインストールできる気がしない。アプリと一緒で、インストールしないと使えないんだよ。どうする?このあたりは、訓練なのかもなあ。身体動作を伴った訓練。修行とでも言い換えられるかもしれない。

あ~、全然着地しないままに文字数だけが増えていく。もやっとするから、続きはまた明日だね。

今日も読んでくれてありがとうございます。情報も思考方法も、人から影響を受けることも多い。それに触れたときに、どれだけフラットな感覚でインプットできるかってことが大切なんだろうね。この心構えが研鑽のための第一歩なのだろう。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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