エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 情報が欠落した説明の功罪 2021年12月27日

2021年12月27日

昨日の話を拾って、別の部分を切り出してみる。

昨日は、ひとつのモノや概念をいろんな立場や状況から説明文を作ってみるという話をしたね。一度説明文を拡散させると、実は集約しやすくなるということもある。昨日から抽象的な書き方をしてしまうなあ。わかりにくかったらごめん。

書き出した説明文を並べた時に、別のエッセンスを加える。そうすると、説明文のそれぞれが違う意味を帯び始めることがある。昨日は試しに「窓」を説明する文章を書き出してみた。ここに、例えば「ぬくもりを感じられる」だとか、「ワクワクする」だとか、そういうコンセプトを与えた上で説明文を見てみるっていう実験をしてみるんだ。
そうすると、窓の新しい形を思いつくきっかけになったり、グルーピングすることが出来たり。いろんな変化をし始めるんだよ。ワクワクする窓って一体なんだろうね。窓際族がワクワクする窓なんてあるのかな。とにかくいろんな思考が膨らむじゃない。

子供の頃から、変な妄想をしていたのは、実はこういうことが多かった。妄想だから、その一瞬で消えていってしまう。だから、ちゃんと残したいときは書き出したほうが良いよね。もう癖になっちゃってるから、無意識だったんだけど。おとなになってから、自分の思考の癖を観察して言語化したらこういうことだったってことに気がついた。
たまたまラジオで聞いた話で、この人も同じタイプかもしれないと思って整理してみたらこんな感じだったんだ。

最近になって、もう一つ気がついたことがあるんだよ。
情報が欠落している方が、想像力が働きやすいんじゃないかって。それぞれの説明文って、かなり情報が欠落してるでしょ。そのものズバリの名称は書かない約束だし、誰がとか状況はもあえて書いていない。そうすると、読み手が想像するしか無いんだよ。その想像が、間違っていることがあるよね。書いていないのだから当然。
だから、ずれる。ずれると、別の見方が生まれてくる。その生まれたものを拾って、紡ぎ合わせていくと新しい何かが更に生み出されるかもしれない。明後日の方向に進み続けるかもしれない。そんなふうに思っているのだけれど、どうだろうか。

こうやって考えていくと、きっちり明文化しておいたほうが良いこともあるけれど、あえて解釈の余地を残したほうが良いこともあるということになってくる。

料理人の世界では、かつて「いいからやれ」という文化があった。賛否は分かれるところだけれど、もしかしたら、細かな説明をしないことが発展に寄与した部分もあるのかもしれない。きっちり説明してあると、その枠からはみ出るようなことが起こりにくい。意図的に外れていく人もいるだろうけれどね。不明瞭な場合は、意図せずに外れていって、やってみたら案外良かったなんてことも自然発生する。

説明書通りを100点と仮定すると、100点を越えた何かが生まれるチャンスが増えるとも言える。

今日も読んでくれてありがとうございます。解釈の余地が多い文章で有名なものは数多くあって、キリスト教の聖書もそのひとつだよね。その空白の中のゆらぎが、解釈の違いによる争いにもなるし、思想の発展にも繋がっていくと考えると興味深いな。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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