エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 掛茶料理むとうが見ている世界感。 2021年11月30日

食をエンタメとして捉えるとどう見えるのか。そういうことを考えている。まぁ、これがうちの会社のコンセプトなんだけどね。

元々、食事というのは生きるための手段だったはずだ。狩猟採集生活があって、その中から植物や、動物を安定的に得られる場所を見つけ出す。釣りのポイントみたいな感じね。そこに行けば食料が手に入るからさ。だから、そのポイントの近くに住居を構えるようになるわけだ。
そのうちに、食べ物を探すのではなくて自分たちでなんとかしたほうが良いんじゃないかと思いつく人たちが登場する。穀物や野菜を育てたり、動物を飼ったりするってことね。そういうことをしたほうが便利な環境に住んでいたから。というタマタマが引き起こしたことだ。農業なんて労力の高い事業をするなんてことは、周りでいくらでも食料が調達できる人たちにとっては、とても非合理的なことだった。でも、一部の地域ではそうしなければ生きていけなかった。

人類は、相当長い間食料を確保することに苦労してきている。この日本でも食料が当たり前のように全国に行き渡るようになったのはつい最近のこと。昭和も戦後の話なんだよね。だから、食料確保は人類の課題だった。それが、この近年で一気に変わる。
現代の日本では、餓死者が出るようなことはないもんね。なんとかなっているのだから、歴史的に見るとすごいことなんだよ。こういう時代になってはじめて「グルメ」という概念が一般に広く浸透していく。

グルメや美食は、古代から有るんだけどね。ごく一部の人達のものだったんだ。それこそ、美食についての会話はその人達の間だけで交わされていて、一般に公言することははばかられるものだった。そりゃそうだよ。食べ物に困っている人がいて、その人達の前で美食の話って出来ないもん。現代の日本がいかに豊かになったかってことだね。

食料を安心して分け合える相手というのは、限られていたんだよね。それが、家族で。もしくは、大名家に使えるというような日本的な「家」「ファミリー」のような集団。よく同じ釜の飯を食うという表現が使われるけれど、まさに食を分け合う行為が人と人とを繋げてきたわけだ。先史時代、いや人類の発祥の頃からずーっとね。
これが一変したというのが現代。

現代においては、食事の意味が逆転してきているとも言える。食を分け合うための集団だったものが、集団の絆を高めるための食事になってきている。実際、家庭によっては各自が外食で済ませたり、それぞれのタイミングで好きなものを食べるのが日常になっているようだ。けれども、いやだからこそ。週に一度は家族で食卓を囲むことを文化にしている家庭もある。一緒に食事をすることが、集団の維持に役立つことを肌で感じているからだ。

こういう「食文化」の形成が、誰かと一緒に食事をするという行為を文化的なものに変化させてきた。誰かと仲良くなりたかったら、とりあえず一緒に食事に行こう。そういうことに繋がるわけだ。それが、自宅へ招待することであっても良いし、外食でも良い。
ぼくら飲食店は、日常の食事の他に「人々が円滑なコミュニケーションを維持するための装置」としても存在価値が有るはずだとも言えるんだよね。そう考えると、料理を美味しく作ることも、楽しく演出することも、ひとつの円の中にあるんだと思えてくる。実は、ぼくらが「食をエンターテインメントにする」と掲げている背景には、こんなことがあるんだ。という話でした。

今日も読んでくれてありがとうございます。みんなが食を分かち合うようになったら。そう、奪うのではなくて分かち合う。そういう状況が世界中に浸透しきったら世界平和に近づくのかな。意外とホンキでそんなことを考えているんですよ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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