接待というと、企業のトップや役員同士の会食をイメージすることが多いですね。だけど、それ以外にもお世話になった方や、親族や友人でも接待というものはあります。接待という言葉がなんとなく独り歩きしてしまっているようで、ホントのところは「おもてなし」だろうし、一緒に食事をすることでコミュニケーションを深めようとする行為そのものだったりもする。
接待という場面では、料亭はその舞台のセットだし、料理は小道具のような扱いになる。一側面では間違いないと思うんだけど、コミュニケーションツールとしてはそればかりじゃないんだと思うんだよね。食事がコミュニケーションの本質だという解釈だ。
これは、なにも掛茶料理むとうの哲学だというわけじゃない。そもそも、人類のコミュニケーションは食事があって拡大していったということを人類学の中でも語られているからだ。
興味深いのは、例えば互いに全く違う文化で、言葉も通じない状況でのこと。そうだな、日本のことを全く知らないどこかの国の、小さな集落に訪れたとしようか。場所によっては笑顔で歯を見せることが敵対行為と取られかねないようなところだ。そういう状況に置かれると、人類は食べ物を分け与えるという行為が最初のコミュニケーション手段になるというのだ。
本で読んだときは具体的な地名が書かれていたけれど、忘れちゃった。そう言えば、大航海時代にアメリカ大陸に到達したヨーロッパの探検隊も、先住民から食べ物をもらったんだったよね。
動物的本能として、食べ物という貴重なものを分かち合うことに意義を見出してきたのが人類だ。とすると、現代人はその価値をどこかに置き去りにしてきているのだろうか。そうとも言い切れないよね。食事を介したコミュニケーションが、互いを理解し合うことに対して優位に働くということを知っているからこそ「接待」や「おもてなし」が「食事」と密接に結びついているのだろう。
コミュニケーションの本質を食事と紐付けて考えてみると、食事の作法やマナーと呼ばれるものの正体もみえてくるのじゃないかな。やたらと事細かに決まり事があることが多いのだけれど、それはコミュニケーションのための決まりごと。
食事以外を例にとれば、にっこり笑って挨拶をしましょう。とか、譲り合いの精神だとか。そういう、コミュニケーションを円滑にするための最低限の決まりごとがあるじゃない。とりあえずそれさえ守っておけば、まずは転ばない。悩まなくて済む。そういうテンプレート。
食事の作法というのは、そのテンプレートをまとめてくれた便利なものだ。不要の解釈や独自の手法を取ったところで相手に伝わらなくてはしょうがない。だから、文明単位である程度の共通理解がある。
接待の場面だけじゃなくて、食事ってそういうものだ。というのも、人類の歴史においては、1人で食事をすることのほうがレアケースだから。基本的には誰かと一緒にするのが食事。昨今では「おひとりさま」とか「孤食」という表現が存在するよね。こういう言葉があるコト自体が「共食がデフォルト」であるという証拠なんだ。
今日も読んでくれてありがとうございます。時々、接待の時の振る舞いについて聞かれることがある。いろいろコツみたいなものはあるけれど、まず最初に心がけたいのは「ちゃんと食べてちゃんと飲む」ということだ。一緒に食糧を分け合うということがコミュニケーションの根幹なのだからね。