生まれてはじめて、自由に文章を書いたのはいつだろう。子供の頃は、あまり意識をしたことがなかったな。読書感想文もあったし、誰かに手紙を書いたこともある。けれども、それは、書きたいという衝動は伴っていなかったのじゃないだろうか。
遠ざかっていく記憶を、どうにか手繰り寄せると、そんな気がするのだ。
書きたいと思って言葉を繰り出すようになったのは、中学1年生のとき。13歳のぼくが、ちゃんと「書きたい」と自覚をもって書いたのは、歌詞だ。
当時は、銀色夏生の詩集なんかも流行っていて、周りに詩を書き始めた女の子もいたなあ。
ぼくの場合は、完全に歌詞だ。とにかくバンドをやりたくて、そして楽曲を作り出すことが面白くて、拙いなりにも書いた。
今、この瞬間に書き連ねている文章は、ちっとも詩の形じゃない。普段のエッセイも、ラジオの原稿も、みんな違う。話し言葉を文字に起こしているようなものだ。あのときの感覚はどこにいったのだろうか。もしかしたら、ぼくの中にはいなくなってしまったのかもしれないし、奥底で佇んでいるのかもしれない。
詩を書こうという気持ちも起こらないのだけれど、書き始めたらなんとか形になるのかな。それくらいに、遠いものになっているような気もする。
歌詞っていうのは、詩と違って音楽が伴う。これが面白い。
音楽のことを考えずに、思いつくままに書き出していく。そこにあとから音楽をつけていくスタイルが基本だった。ぼくの場合は。だけどね。
友人が曲をつけてくれることも多くてね。そのうちの一人は「文字数に制約があるのがやりにくいから、メロディーに歌詞をつけて欲しい」と言う。他の一人は「文字の世界観に触発されて音が生まれるから、どんどん書いて欲しい」と言う。
こんなことをやっていくと、次第に「楽曲になりやすい文字運び」なるものがぼんやり見えてくるのだ。わかりやすく言えば、俳句などのように「575」のリズムを配置することもある。現代音楽は、同じメロディを何度か繰り返すことが多い。だから、リズムを繰り返すこともある。
高い音で発生しにくい言葉もあるし、低いとくぐもってしまう言葉もある。
こうやって、少しずつルールを見つけていくのが、また面白いんだ。
文字数に制限を設けると、無駄な言葉を整理することになる。例えば、そうだな。
「自転車に乗って通りかかった帰り道、気持ちよさそうな草原を見かけて、かばんを枕にして寝転んだ」という情景を書こうとする。この中から、要らない言葉を探す。あってもいいけれど、無くても良い言葉。
どこかからの帰りで自転車に乗っているのだから、「通りかかった」は要らない表現だね。あっても良いけど無くても良い。枕は寝るものだから「寝転んだ」も要らない。「乗る」、これもどちらでも良い。自転車を引いて歩いているのなら、そう書くだろうから。無いということは乗っていると想像できる。
「自転車の帰り道、柔らかな草っぱら、かばんを枕に」とまあ、こんな感じで繋いでいくんだよね。適当にやってもなんとかなるもんだね。クオリティはさておき「5,5,5,5,7」になってるよ。少しくらいは、残っているのかな。
今日も読んでくれてありがとうございます。書く文章の拙さは、嫌というほどぼくが知っている。やればやるほど、才能の差を見せつけられる気がするよ。読むのは好きなんだけどね。特に、リズムや響きが良いのが好きかもしれない。文章うまくなりたいなあ。