エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 日本にもあった「禁酒令」政府も困った時代 2021年6月30日

2021年6月30日

お酒と宗教の話は、まあ余談程度のものでして。さて本題に戻りましょう。日本酒の歴史の続きです。奈良時代で朝廷が「造酒司(さけのつかさ、みきのつかさ)」を作って酒造りを後押しした。そして、次第にお寺でお酒を作るようになって、そこで現代の清酒が誕生した。というところまで書いたかな。

この頃は、まだまだ一般に普及なんかしていなくて。殿上人や公家なんかが嗜む程度に楽しんでいたらしいね。それがいつから広まっていったのかという話だよ。
先に言ってしまうと、この「お酒の広がり」が日本史に大きな影響を与えているし、料理の歴史に巨大なインパクトを与えることになるんだ。だから、ここで「お酒の広がり」の流れを理解しておかないと、その先の影響についてはちゃんと掴めないんだよね。ぼくがそう思ったということなんだけど。

時代は下って、武士の時代になる。それまでは歴史の表舞台も、お酒に関わる人もみんな朝廷やお寺が主役だったんだけど、鎌倉幕府が成立する前後から「武士が主役の時代」がやってくるよね。それはお酒においてもそうなんだ。武士が自分たちでお酒を作るようになっていって、それを飲む。並行して民間でもお酒を作って飲むようになる。
つまり、お酒を飲める身分が庶民にまで広がるということになったとうことだ。

これは、お酒の生産工程が確立されたからってことが大きいだろうね。前段で「お寺」がお酒を作ったという話をしたけれど、このときのお寺の功績は「酒造りの工程を明確にした」こと。レシピ化したともいえるかな。これで、一気に広がっていく。
あんまりにも一般にお酒が広がったせいで、一時まちが大変なことになった。飲酒が元で喧嘩になって、それが村の中で禍根を残したこともあるし、村同士のいざこざにも発展することもあったらしい。さらには、武士の家計が困窮することまで。お酒を飲みすぎてトラブルが起きるのは鎌倉時代から変わらないのね。

そこで鎌倉幕府は「酒の飲みすぎ禁止」の法律を作る。「沽酒禁令(こしゅきんれい)」といって1252年のこと。その中で「鎌倉市内の民家にあったお酒は、1件につき1個だけ良いよ。それ以外は没収ね」ということになったんだけど、民間所有の酒壺を数えたら37,000個もあったんだっって。当時鎌倉に住んでいた庶民の人口が6万~8万人ということだから、平均すると1世帯に1個は酒壺があったということだ。

ついでに、この法律の中で「お酒の販売をしたら裁くよ」と言っている。この時代の「裁く」は怖いよね。どうやら、酒を作って販売している庶民がいてそれがめちゃくちゃ儲かっていたらしいんだ。下手に庶民が力をつけると都合が悪いから禁止したという側面もある。お酒で儲かるってことは、それだけ買いたい人がいるってことね。当時のお米の生産量とか食糧事情を考えると、お酒作っている場合じゃないのよ。だって主食だもん。しかもお米の生産性だって、今ほど高くない。現代はお米1粒が120粒くらいになるレベルだけど、この頃はまだ20粒くらいの稲。機械なんてないから、重労働の末に生み出したお米をお酒に変えちゃうんだから政府としては溜まったもんじゃないね。飢饉でもあればお米がなくて餓死してた時代でもあるから、そりゃ禁止したくもなる。
それにしても、我らがご先祖様のお酒にかける情熱ってヤバいレベルだということだね。

ちなみに、たくさん貯蔵していた理由の一つとして「熟成させるため」でもあったと言われている。現代ではあまり聞かれないことだけど、三年古酒や10年熟成させた古酒のほうが美味しいということが当時の記録に残っている。それを神社やお寺に奉納する庶民もいて、そのためになけなしの米を使用したのなら酔いどればっかりじゃないかもね。日蓮上人の記述にも、庶民が貴重な古酒を届けてくれたという記録が残っているらしいよ。

今日も読んでくれてありがとうございます。日本人だけじゃないけれど、お酒の存在が社会のなかでかなり大きくなっていったんだよね。次は更に拡大していくお酒の市場と、同時期に進化を始める我らが日本料理のお話です。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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