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今日のエッセイ 日本初のインスタント味噌汁 2021年8月12日

2021年8月12日

味噌汁が生まれたのが鎌倉時代で、完全に国民食になったのが室町時代というから随分と歴史の長い料理です。実は、そんなに長く続く料理ってあんまりないんじゃないかな。食材はあるけど「料理」となると、途中で廃れちゃったり変化したりするから。しかもずっと現役で、現場にいるんだよね。

さて、戦国時代になると食糧難の時代になる。戦争してるのだから当たり前なんだけどさ。戦国後期になるまでは、半農半武といって「普段は農民、戦になったら戦士」が普通。戦が多いと戦死者が出るから、農村の働き手が減るわけだし、戦場になれば田畑は荒れるから。日本人の体格が最も小さくなる時期だ。

ちなみに、日本人の体格って大昔が小さくて現代に向かってだんだん大きくなったという誤解があるみたいなんだけど、そうじゃないんだって。特に貴族や武士階級は元々しっかりした体格をしていて、普通に170cmくらいだったし、中には180cmくらいの人もいたのが大和時代から室町時代初期まで。現代とあんまり変わらないよね。それが、室町後期という戦国の世に入ったところで急に小さくなる。長身痩躯で知られた織田信長でさえ160cmと言われていて、秀吉に至っては140cm~150cmとも言われている。
それだけ食生活が人体に与える影響が大きいってことだよね。秀吉の息子は180cmだというのは食の影響なのかな。お坊ちゃんだし。これだけ体格が違うと「父親が違うのでは?」と言われても不思議じゃないよね。

話を元に戻そう。体格云々はともかくとして、とにかく栄養不足になりがちな時代ではある。そこで注目されたのが味噌というわけ。戦国武将の石田三成っているでしょ。関ケ原の合戦で西軍にいた人。どうでもいいけど大将じゃないからね。この人の伝承で「熱湯に焼き味噌をかき立てて飲めば、終日米がなくとも飢えたることなし」と言ったと言われているんだけど、「味噌汁飲んでたらしばらく飢えることはない」って意味だ。

戦国時代ならではだなあと思うんだけどさ。戦に出ると、メチャクチャ体力使うよね。戦の最中もだけど、移動もしなくちゃいけないし。この時代の戦って、基本的に春から夏にかけての季節が多いから、暑いんだよ。そうすると熱中症リスクがあるでしょ。味噌汁って熱中症予防になるの。これ是非覚えておいてほしいんだけど、味噌汁って熱中症予防に効果的なんだ。
熱中症になるメカニズムを簡単に言うと、汗をいっぱいかく、その時に塩分も排出する、合わせてミネラル(カリウム、マグネシウム、カルシウムなど)とビタミン(特にB群)が排出される、結果脱水症状が起こるということ。味噌汁だけで、ほぼこれらを補給することが出来るんだ。ついでに暑さのせいで体力も落ちるよね。タンパク質や脂質を補給することが出来れば、体力回復にもつながるという利点もある。

戦国時代は「芋がら縄」という陣中食が発明された。芋がらっていうのは、芋の茎の部分、ずいきとも言うよね。これを味噌でコトコト煮含めて、それを使って縄にしたもの。この縄を腰に巻き付けたり荷物を縛るのに使って、必要な時に味噌汁にするんだ。陣笠って、知ってるかな。大河ドラマで見たことあると思うんだけど、足軽(歩兵)なんかがかぶっている平たい円錐形の傘ね。あれに必要な文だけ芋がら縄をちぎって入れて、そこにお湯を入れたら「ずいきの味噌汁」が出来上がるってわけだ。これ、たぶん日本最初の「インスタント味噌汁」じゃないかな。

味噌の開発に情熱を注いだ武将で有名なのが武田信玄、伊達政宗。

今の長野県が信濃国と呼ばれた時代に安養寺で作られた味噌だ。武田信玄の頃には味噌作りも盛んになっていたんだけど、信玄は味噌の活用と生産のちからを注いだんだよ。隣国の上杉謙信とは川中島で何度も合戦をしているんだけど、その「川中島をはじめ信濃国全域の左右5里に味噌作りを奨励すること」と武田家の文書に記録がある。
武田の領地は海がないから塩分が貴重なんだよね。味噌は塩分の備蓄に都合が良かったし、無駄なく摂取できるのが一つの利点。それから「陣立味噌」という味噌玉も開発した。芋がら縄みたいな使い方なんだけど「豆を煮てすりつぶし、麹を加えて丸めたもの」と書かれている。これを持って戦に出ると、歩いている間に発酵して味噌になる。
こうして武田信玄が力を入れて産業として拡大した信州味噌は、現代では日本一の生産量になっている。味噌蔵はたくさんあるけど、タケヤ味噌、ハナマルキ、マルコメ味噌、新州一味噌は有名だよね。

伊達政宗も軍事用の保存食として味噌を重視していた。仙台城下に「御塩噌蔵(おえんそぐら)」という味噌醸造所を設置して、味噌の大規模製造に着手したんだ。これが日本で最初の味噌工場ね。時代的には秀吉がほとんど天下を統一したあとだけど、まだまだ不安定だったから備えをしていたんだね。当時の宮城県はかなり貧しくて、今でこそ全国有数の米どころだけど当時はかなり荒れたところだった。お米がたくさん採れないから、米麹の量を半分に減らしてお米を節約しながら大豆メインの赤味噌を作ったのが名物になっていったんだ。秀吉の朝鮮出兵で一躍有名になったんだって。夏場の長期戦だったから、他の武将が持ってきた味噌のほとんどが腐敗しちゃったんだけど、伊達政宗の味噌は美味しいままだった。それをいろんな人に分けてあげたら、全国に知れ渡って有名になって「仙台名物」として後に仙台藩の経済を支える存在に育っていく。

今日も読んでくれてありがとうございます。歴史的に大きなイベントがある時代に、料理が新しく生まれたり発展したりすることがよくあるんだよね。料理ってホントに人間の生活に密着しているんだな。江戸時代になると、現代人もびっくりするくらい多種多様の味噌汁文化が花開く。次回はそのお話です。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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