エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 早いことは良いこと。は本当か。 2022年4月11日

2022年4月11日

久しぶりに外食をした。定食だったけれど、こんなに早く提供できるってスゴイことだよなあって、改めて思ったんだよね。飲食店をやっているから、厨房内でどんなことをやっているのかは、だいたい想像ができるよ。だけどさ。同じことを家庭でやろうと思ったら、けっこう大変だよ。サラダ作って、おひたし作って、味噌汁作って。そのうえでフライを揚げるのだけれど、それもぼくと妻とで違うものを注文しているんだから。

早いってことは、一つの価値なんだろうね。

自宅で出来ない味を提供することや、自分で作らなくていいことが外食の価値として語られる。それ以外にも、早いということも価値の一つとしても考えられるだろう。

一方で、早いということが価値を喪失させている可能性もあるんじゃないかとも思うんだ。便利すぎる。早すぎる。それは、消費になってしまうから。

例えば、高速で移動する乗り物。そうだな。電車にしようか。電車に乗れば数分で目的地に到着することが出来る。歩いたら30分はかかる。そういうシチュエーションだとしてね。仕事で用事があるんだったら、電車に乗るよね。たぶん。それは間違いなく合理的な判断だろう。

一方で歩いた場合。30分かかるのだけれど、風景を楽しんだり、今まで気が付かなかったものに気がつくかもしれない。その30分が本当に無駄な時間だったのかと言うと、そうでもない。つまり、有用な時間で埋まっているのであれば、「歩くことを楽しむ」時間に置き換えられる。だから、消費の観点で見れば、無駄な時間はゼロになる。

時間の消費という言い方をすれば、電車に乗っている数分がロスであるといえる。一方歩いている時間は消費ではないから、ロスしている時間はゼロになる。そういう見方をすることも出来るかな。楽しむという主観を持ち込むとさ。

どっちが良いとか悪いということではなくて、シチュエーションによって「早いという価値」が変動するんだと思うんだ。

食事に関しては、ゆっくり楽しむ時間ということで良いのではないかと思う。

とかく仕事となると、早くて効率が良い方が良いということになる。行動そのものを楽しむよりも、早く目的にたどり着くことが優先される。それは、企業が営利団体である以上は仕方がない。一方で、作業自体を楽しむ事ができるならば、その作業は携わる人にとって有意義な時間になる。

だからこそ。

せめて食事の時間くらいは、ゆっくりと時間をかけて楽しむようにしたいもんだと思うんだよね。料亭に行くとそういう気分になるという人もいる。だけど、日常の食事もそうであって欲しい。ちょっと一息つく。すべてを効率的にしてしまうと、心が追いつかなくなっちゃいそうだからさ。

家庭での食事には、それを作る人と食べる人がいる。なんにも考えないで、テレビやスマホを覗きながら食べてると、それは消費になっちゃう。作ってくれた人に思いを馳せるだけでも、食事の時間は大きく変わるんじゃないだろうか。料理をしたことがない人でも、想像するくらいのことはしてみてもいい。出来れば、料理を作って体験してみると良い。

現代の日本では、残念ながら「食事を作るのは女性の仕事」が定着している。共働きなのであれば、料理もその他の家事も均等に分担したら良いわけだ。得手不得手はあるだろうけれど、出来ないことはない。料亭の料理を作ろうってわけじゃないのだ。家族に喜んでもらおうとするだけのこと。

必要なのは、お互いに想像し合うことなんだろうな。慮るようになるために。

今日も読んでくれてありがとうございます。ホントは楽しみたいし、楽しむことが出来る時間。なのに、他の要素に引っ張られて「消費」してしまっている時間ってないかな。そういうのって、スゴくもったいない。当たり前の、フツーの暮らしの中がもっと楽しくなりますように。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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