エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 早送り視聴について、考えてみた。 2022年4月25日

2022年4月25日

最近、動画を早送りで見る人が増えているらしいね。ぼくも早送りで見ることがある。何かの講座だとか、いわゆる「勉強」に関することは、1.5~2倍の速度で視聴する。有難いことに、昨今の動画配信の早送りはちゃんと音声が聞き取れる。一昔前のテープのように「キュルキュル」という音にならないからね。

しかも、学習の場合はある程度再生速度を早くしたほうが良いらしい。ホントかどうかは知らないのだけれど、脳が活性化して学習効率が良くなるのだとか。だとすると、時短もできて、ダブルで効率的だということになる。

テレビ番組で取り上げられていたので、びっくりしたのだけれど、音楽やドラマや映画すらも早送りするんだとか。どうなんだろうね。ぼくにはちっともピンとこないなあ。

早くすることが良いこともある。思考も早くなるし、会話もポンポンと会話できるようになるかもしれない。会話のスピードが早い人は、賢そうにも見えるだろう。ぼくも結構早口で喋ってしまう方だけれど、これはこれで弊害があるようにも感じているんだ。

思考の速度が早いと、深さが足りないことがあるんじゃないかな。じっくり考える間が欲しいのに、次から次へと情報が流れ込んでくる。そうすると、次の情報が素通りしてしまったり、考えたい内容を見逃してしまったりする。

今のどういうこと?ってなったら、ちょっと立ち止まって考えたい。日常会話であれば、それを言葉にすることで一旦止められる。けれども、動画の場合はどんどん進んでいくんだよね。そして、次の情報が入ってくる。「どういうこと?」を考えていると、気がついたら違う話題になっていてついていけないことがある。まぁ、動画も停止すれば良いのだけれど。逆のパターンだと、ちょっとした違和感をスルーしてしまう。「どういうこと?」っていう感覚を無視することになるじゃない。これもどうかと思うんだよ。

話が上手な人の講義はとても面白いし、わかりやすい。だからこそ、「違和感」を覚えにくいんだ。自分の感覚に無いことであっても、「なるほどねぇ」と感心してしまう。疑問を持つ余裕が無くなってしまうのだ。言い換えると、自分の中で自分なりに解釈する時間を奪っているのかもしれないよ。人の意見は人のものであって、それを自分なりに理解するには、自分の中のものと結合したときだ。

込み入った感覚の話かな。ちょっと書き出してみよう。

本を読む、動画を見る、情報を聞く。これらは、おそらく情報のすべてを思考に入れているわけじゃない。読み取った情報がきっかけになって、自分の中にある思考とか意識が展開する。自分の中で展開したものを理解する。こんなプロセスがあるんじゃないかと、勝手に想像しているんだ。

この前提で考えると、早すぎる情報インプットは「自分の思考を介した情報を読む」というプロセスを飛ばすことにならないだろうか。相手のことだけを受け取る。だから、見聞きしたことを要約して喋ろうとすると、ちっとも話せないということになる。そんな気がするんだよね。経験上の話だけどさ。

少しばかり速度を落として、じっくりと情報を得ることも良い。読書しながら自分と対話することになるから。会話でも良いと思うんだ。ときどき、普段よりもゆっくり喋る人がいるでしょ。意識的か無意識かわからないけれど、あえてペースを落とすことで思考のトルクを上げるという感覚なんだろうな。

今日も読んでくれてありがとうございます。映画や音楽などは、時間の芸術だ。そして、自分の中にある言葉にならないような感情を呼び起こすきっかけでもある。どんな感情になるかは、人それぞれに違うだろう。そのための映像だし、間だし、音なんだ。という解釈をしているよ。たぶん、食事も似たような感覚なんだろうなあ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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