子供の頃から違和感があって、今でもこれを思うと変なものを見たような気がしてしまう。それは「食事の時間」だ。
なにも食事をしている時間がおかしいと言っているわけじゃないんだ。
「○○時になったから、ご飯にしましょう」
というのが、変だなあと思うということなのだ。
子どもなんか、体力も胃のサイズも小さくて、その日の行動量によってエネルギー消費量が違うよね。そしたら、毎日同じ時間にお腹が減るとは限らないじゃないか。空腹を我慢して授業の集中力を高め続けるというのは、なかなかの精神力が必要だ。
なんだろうな。
時計が発明されてから。それも、腕時計や掛け時計が発明されて、至るところで時間を確認できるようになってから。ぼくらの生活は「時計」に支配されてしまったような気さえする。
そもそも、それぞれに生活時間は違うのだ。
大手企業で働くサラリーマン。お茶を作る農家。車のパーツを組み立てる工場。みんなが同じ時間軸だとは到底思えない。
例えば農家だったら、時間の基準点は日の出日の入りだ。日が出ている間が働くことが出来る時間帯ということになる。暗くなってからの外作業は効率が悪く、危険も伴う。工場なんかは、みんなが同じ時に同じ場所に集まることが肝要だ。沢山の人が集まることでしか効率化が出来なかったからだね。現代は変わってきているかもしれないけれど。それでもやはりバラバラの時間に働くことは効率的ではないよね。
江戸時代の食生活を見てみると、腹時計で活動している人が比較的多かったようだよ。現代に比べてね。
例えば江戸時代の大工さんたち。おーいそろそろ腹が減ったから飯にしようか。と誰かが声をかける。そしてそれに賛同する人がいるからお昼ごはんということになる。まあ、棟梁が言ったら決定なのだろうけどね。
まさに腹時計だ。けれども、みんな一緒。これは、共同作業をしている以上は、その方が良いということだ。
今、ぼくは比較的腹時計で生活している。
仕事中でもお腹が減ったらちょっとつまむ。幸い食べものは目の前にあるからね。だけど、賄いは一緒に食べる。落ち着いてコミュニケーション出来る時間だし、作るのも片付けるのもまとめたほうが効率的だもの。
○○時になったら食事だよ。というようなことは無い。
学校は、効率を考えたら時間を揃えるしか無いんだよなあ。それはわかる。ぼくらだってそういう観点で生活の一部を時間で決めているんだから。
だけどさ。なにかが引っかかるんだよね。時間というか、時計に自分の時間を細切れに刻まれているような感覚が。
今日も読んでくれてありがとうございます。
宴の終わりは、場の空気で決めるのが良い。そういう意味では飲み放題だと強制的に終了しちゃうから難しいんだよね。お店側は楽だけど。ムードや間。もうちょっと暮らしに取り入れると良いかもね。