「小説なんて生産性が低い。成功者の習慣みたいな成長を促す本を読め」と、とある女性が夫に言われたそうだ。このことについて、村上春樹氏に意見を伺った所「生産性の高いものばかり追い求めていると、人間がだんだん薄くなる。確実に薄くなる」と応えたそうだ。
これね。ホントにそう思う。
そもそも、成長を促す本の定義がぼくとはずいぶん違っていて、そこもまた面白いんだけどね。成功者の習慣みたいな本、これが成長を促す本だとばかりは限らないわけだからさ。成功者という定義すらも、まったくもって不安定。どの尺度をもって成功者というのか。まぁ、資本主義的な成功者なのだろうけどね。この場合。
ことの定義を論じるときりがないし、人それぞれだから。うん、この際そこは横へ置いといて。と。
生産性の高いものばかりじゃ人間が薄くなる。これだよね。
人間の厚みや薄さというのは、イマイチ具体的な表現ではないので、言語化が難しいんだよなあ。でも、なんとなくわかるよね。薄い人間っているもの。日常で感じるのは、薄い人って話が面白くないんだ。ホントに。
話の内容がさ。ビジネスの話だと、仕組みとか効率とか利益の話に偏りがちな気がする。それ自体は良いの。ただ、そればっかりだとさ。なんとも面白くない。言葉の選び方だって、例え話だって、偏るから情緒がない感じがするんだよ。
そうだ。情緒。豊かな感受性って、遊びだとか芸術だとか、そういう世界にあるような気がするんだ。その部分の言葉遊びが少ないのかな。感受性みたいなものって、面白さそのものだったりするじゃない。だから、会話をしていて、「ここが面白いと思う」みたいな主体的な感覚が登場しにくいのかもしれないね。
落語家の故立川談志さんが言った「落語とは人間の業の肯定である」というのは結構有名な話なのかな。成功者でもなくて、どっちかっていうとマヌケな人物。ヒーローじゃなくて、その側にいたり真似したりして、失敗しちゃう人。そっちが主役なんだよ。それが、ああ負け組だとか、アホだとかで片付けてしまえばそれまでなんだけどさ。あるある。人間って変なところで変なことやっちゃうんだよね。全然合理的じゃないけど、しょうがねえやって、それも人間らしくていいじゃないって、そういう感覚。
前述の、生産性の高さで測るなら、落語なんてものには生産性なんかゼロなわけだ。怒られるかな。だけど、ぼくなんぞは、この落語の世界にどっぷりと浸かって楽しませてもらっている。なんだか知らないけれど、「良いよなあ」って思うんだ。笑わせてもらっているだけじゃない、なにかがあるような気がしてさ。
仮に、ゲラゲラと笑うだけだとしても、本当は生産性が高いのだと思うのね。ぼくの定義だから、全然賛同してもらわなくて良いんだけど。声に出してアッハッハと笑うことって、そうたくさんはないよね。日常生活で、仕事中で、あんまりない。思いっきり笑うとさ、気持ちがスカッと晴れるんだ。ちょっとくらいのウサなんかは、笑うだけで十分どうでもよくなる。
そしたら、次の日くらいには嫌なことも忘れて、また生きていこうって気になるんだ。ほら、もう生産してるじゃない。
人間の業を認めちゃって、それを許して、笑いに変えて。それでいて、ちゃんと理解も示したり、自分も一緒に怒ってみたり泣いてみたり。なんだか、そういうのが人間の厚みに繋がるんだろうか。うまく言語化出来ないままに書き出しちゃったから、ふわっとしてるなあ。でもまあ、そういうもんか。
今日も読んでくれてありがとうございます。生産性の高い食べものは、完全栄養食みたいなものになるんだろうか。まったくもって味気ない。小説や漫画や映画、落語に歌舞伎、そういう感じの食事のほうがずーっと良いよ。