エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 老子を読んでみた。 2021年12月25日

「時流に流されずに、超然と生きる。」という、生き方であり、世界の捉え方をした人がいた。2300年くらい前かな。老子だ。はっきり言って、ぼくは名前しか知らなかった。そもそも、人なのか本のタイトルなのか。そんなレベルで知らん。

作者不明の伝説上の人物らしんだけどね。実はめちゃくちゃ影響を受けているんだって。大器晩成とか千里の道も一歩から、上善如水や柔よく剛を制すって知っているよね。「老子」という書籍に登場する言葉だそうだよ。2300年間ずっとベストセラーで、ずっと読まれ続けている。聖書や論語と並ぶもので、西洋でも翻訳されて読まれている。一体なんだろう。なぞ。

論語は良い時に読むもの。老子は落ち込んでいる時に読むもの。という対比を聞いたことがあるけれど、なんだかピンとこないよなあ。

道「タオ」という概念は、果てしない競争社会の中で行きにくさを感じている中で生まれた。時代背景としては春秋戦国時代の書物だからね。富や権力の格差が大きくなった時代だ。どうも、現代社会と似ている部分もあるかな。

世界はなんにもない空間「無」から、「有」が突然生まれた。ビッグバンよりも前の「無」。ここから突然何かが生まれるのは「道」に則って「有」に至る。なんというかな。道は、万物に影響するエネルギーでもあるし、自然界の法則みたいなもの。一神教だったらヤハウェイみたいな絶対神を想像するんだろうけれど、そうじゃなくてただただそこに有る流れのようなもの。

これ続けて大丈夫かな。興味があって書き出しちゃったんだけれど。まあ、こんな途中でやめないけどね。

道(タオ)が生き方に通じているのかね。生きる道なんて言うと、道徳とか倫理みたいなことを想像しちゃうけれど、それとは全く違うみたいなんだよね。いわゆる倫理観というのは、いろいろと時代や社会で変わるのだろうけれど、もっと自然の理みたいな感じかな。

老子の対比として引き合いに出されるのものに孔子の論語がある。そういうのはちょっと窮屈だよねっていうことを言っているぽいよ。老子のキーワードは「無為自然」。あるがままに生きたら良いじゃん。論語の世界観なんてちょっとめんどくさい。規程に従って生きるというのは、ルールや外見にとらわれることも多くて、そうすると本質を見失うよって。本質のためのシステムも、時代によって形骸化するのは歴史上もたくさん事例があるよね。だから、本質の部分をシンプルに考えましょうってことかな。その延長で見えてくる「ただ生きる」を突き詰めたのが老子か。どういうことだ?これは簡単にわかったふうにはならないな。

あるがままに生きるだけだと、ワガママになってしまう。そんなことを問いている本がベストセラーになるわけないもんね。

無為に生きる。「道は常に無為にしてしかもなさざる無し」?「何もしないをする」?ただなんとなく何もしないというのと、何もしないをしようとするというのは別物ってことだろうか。達成感とか顕示欲とか嫉妬心とかいう欲望も、そのために必要な知識なんか全部いらん。こんなのは余計なものだって。これって、無知の知みたいなこと?

最終的に生まれたままの赤ちゃんみたいになる。これか?なんか神道の魂のみそぎに近い感覚かも。赤ちゃんの例えは極端だけれど、とにかく余計なものを削ぎ落とすことが大切だと考えていた。そして、余計なものを削ぎ落としまくった結果、水みたいな生き方になる。これが上善如水。

今日も読んでくれてありがとうございます。現代社会にも影響を与えている老子。読んだことなかったし、そんなに長くないからと思って読んでみたけど。これは咀嚼するのに少し時間がかかりそうだなあ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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