モノゴトを理解する上で、言葉は無常の力になる。なにか分けのわからないモヤモヤした感覚のものが、言語化された瞬間に理解できるということってあるよね。自分の中で、なんとなくこんな感じなんだよなあっていうことを、誰かが言葉で表現してくれると「それだ」というようなことね。
言語化ってことは、言葉で定義するということだ。定義を言葉で表現するということだ。それが理解を助けるのに、とても力を持っているんだよ。理解というか、把握するというのに近いのかもしれない。
こうやって考えていくと、言葉というのはとても便利なツールである。伝えるとか受け取るとか、いわゆるコミュニケーションツールにもなるし、自らの思考を深めることにも便利なツールだ。
おそらく、日本の学校教育では言葉で定義することが学問そのものだとも言えるかもしれない。国語算数理科社会。どの教科も、モノゴトを言葉で捉えるための手段だということだ。
さて、一方で捉えきれない部分がある。なんだか、どうやって言葉を駆使しても把握しきれない感覚があって、その領域はまだ言葉が到達していないような感じがするんだよね。数千年かかってもまだ言葉では表現しきれない部分がある。
それは、例えば仏教世界の空や無の思想は、釈迦から始まってずーっと解釈が繰り返し積み上げられ続けている。ぼくらの感覚に比べたら、ずっと鋭敏に的確に表現がされているとは思うのだけれどね。ちょっとやそっとでは理解しきれないくらいに、複雑に組み上げられた論理体系。とても強固なものに見える。そのくらい鉄壁に見えるロジックを持っているにも関わらず、般若心経では「言葉だけじゃ理解しきれないよね」ってバッサリ言い切っている。
世界中の哲学者がどう言っているのか、全てを知っているわけじゃないけれど。近代以降は、この考え方に肯定的な哲学が多いように感じるんだよね。なんとなく、社会システムを俯瞰してみると、言葉だけじゃ捉えきれない感覚が根幹を決めているような気がするしさ。
お金なんて、すごく象徴的だよね。現代のお金は、政府という国家権力が「これは価値があるものだ」って定義してくれているから、単純にそれを盲信している。そういうことにしておいて、従ったほうが便利だからさ。だけど、僕らが普段触っている紙幣や硬貨には大した価値がない。ただの紙切れだしね。1万円札の素材に1万円の価値はない。この辺りは、なんとなくわかるよね。ぼくが不思議だなあと思っているのは此処から先の話。
中世の終わりか近代の初め頃。世界の貨幣は金本位制をとっていたよね。金の流通量と同等の貨幣を流通させる。そういうルールにしておかないと、誰かが勝手に紙幣を増刷してしまって、ハイパーインフレーションがおきてしまう。極度に物価が上昇するってことね。
ここで金(ゴールド)が登場しているのだけれど、金はかなり昔から「価値があるんだ」って思われてきた。ただただ、そう思われてきた。誰かが規定しなくてもそうだってね。これは感覚の部分じゃないかな。人類は金やダイヤモンドみたいなものを見ると、直感的に「価値がある」と認識してしまう。
日本はわかりやすいよ。米だから。食べ物に対して価値を感じるのは、単純に命に直結するものだから。食べ物の歴史を見れば一目瞭然だけれど、世界は食料の状況で動かされてきたわけだ。
なんだろうね。貴金属を見て、直感的に「いいなあ」と感じる感性。もちろん、社会がそう定義しているから、その世界に生まれたからだとも言える。その社会の価値観にぼくらの感覚も引きずられているだろうしね。それにしても、ロジックの外側に感覚が存在するように見えるんだ。
学問や教育の世界では、古代から音楽やアートが取り入れられている。もしかしたら、この言葉の外にある感性も必要だということを体系化した結果なのかもしれないよね。
今日も読んでくれてありがとうございます。海や山や、世界中の素敵な景色を直接見る。肌で感じる時の高揚感は、体験でしか得られないもんなぁ。体験したことのない人に、あの感覚を味わってもらうのは無理。体験を通した感動って、実はとても大切なことなんだろうね。