エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 言葉に執着する面白さ 2022年4月30日

2022年4月30日

どうやら、言葉というものに執着が強いらしい。らしい、というくらいだから、自覚がなかったのだけれど、家族や友人に言わせるとそのようだ。

ふと、音楽について話をしていたときに、この症状に気がついた。というか指摘された。

弟や妹は、音楽を聞いていてあまり歌詞に注意を払わないらしいんだ。ちゃんと覚えているし、歌えるのだけれど、そこまで深く意識を向けないのだと。そこが、ぼくとまったく違って面白かったんだよね。

メロディや演奏について注意が向いていないということはないのだけれど、結構歌詞の内容が気になってしまう。秀逸な表現や言葉運びに触れるだけで、とても嬉しくなってしまう。

日本語には、ヨーロッパ系言語のようなアクセントがないって言われているよね。皆無じゃないだろうけれど。強弱じゃなくて、音の高低でアクセントを表現をしているということだ。そこは、昔から気になっていて、日本語の歌を聞いていると、そこが気になってしまうのだ。

例えば、ドリカムの「晴れたらいいね」って曲があるよね。ドリカムの楽曲の中でも好きな歌なんだけどさ。話をするときのように普通に声に出して読むと、「晴れたらいいね」のアクセントは「は」にある。次が「い」になる。だから、音符に置き換えたら、「は」と「い」が高い音になっているはずなんだ。けれども、楽曲の中では「れ」と「ね」にある。

良い悪いの話じゃなくて、ただただ気になっちゃうってことなんだ。そして、こじれた解釈を始めてしまう。

あれほどのミュージシャンが、あえて日常のアクセントとは違うところにアクセントを設定したのだ。ということは、言葉通りの意味で「晴れたらいいね」と捉えるのは違うのではないだろうか。言葉通りの意味だとしても、日常と離れたところに音階を移動させることで、意味を希薄にさせているのかもしれない。だから、この歌詞で表現したい本意は、別のところにある。

この楽曲で表現したいのは、父への想いだ。それを真正面から表現するのは気恥ずかしい。だから、昔みたいにお出かけしようよ。だから、晴れたらいいねなのだ。

ね。完全に解釈がこじれているでしょ。

まぁ、普段からこんなにこじれた解釈ばかりをしているわけじゃないよ。批判するようなこともほとんどない。どちらかというと、素敵な表現に出会った時に、必要以上に感銘を受けるかな。比喩表現とかもそうだし、とても短い言葉で核心をついている表現なんかも好きだ。

絵で表現するのも難しいし、直接的な言語表現も難しい、という心理状態がある。なのに、表現が不可能と思われる「言葉」を使って、ちゃんと心を揺さぶってくる。誰でも同じ状況を呼び起こすことが出来るわけじゃないだろうけれど、伝えたいことがビンビンに伝わってくることがある。そういうのを見聞きすると、めちゃくちゃおしゃれだなあって思うんだ。

奥歯に挟まったモノが取れた。心にかかった雲が晴れた。というのでも、なんとなくわかる。体に張り付いた薄い紙が、静かな海の中でそっと剥がれ落ちた。というのでも、婉曲ではあるけれど、伝わるものがある。ざっくり言えば、どれもモヤモヤしてたものが解消されてスッキリした感覚を表現しているつもり。

けれども、この3つは、その奥にある心情が少しずつ違うようにも見えるのだ。

そして、これらの表現は、読み手の経験に頼り切っている。完璧に同じ感覚を共有できないからこそ、その人の経験とその時に感じた感情を呼び起こすことに注力をしている。こういう、誤読を生みかねない表現がまた奥ゆかしいと思っちゃうんだよね。

今日も読んでくれてありがとうございます。まったくもって、スピーチだとかプレゼンだとかの役には立たない話だ。ただただ、ぼくの癖を書いてみたってだけ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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