エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 質問回答「なんでまちづくりやってるの?」 2022年5月17日

2022年5月17日

市内のあちこちで呼び出される。まちづくりだとか、学校の周年祭だとか、地域づくりだとか。行政計画の策定委員会にも。それも無償で。まれに報酬をいただくこともあるけれど、準備の時間も含めて時給換算したらタイヘンなことになるよ。場合によっては、持ち出しだってあるしね。収支はマイナス。

呼んでいただいて、時間と能力の都合が付けばなるべくお手伝いさせてもらっている。便利なのかな。と勘ぐることもないではないけれど、ほとんどはそんなこと無くて。ちゃんと人選してもらった中に入るみたい。そんな生活をしていると、でしゃばりだって言われることもあるし、奇特な人だって言われることもある。

そして、とうとう聞かれたよ。なんでボランティアみたいに街づくりにかかわるのって。良いね。学生って素直で素敵。

単純だよ。面白いから。ただそれだけ。高校生が学園祭でメチャクチャ頑張ったりするじゃない。クラスの出し物だったり、飾り付けをしたり、実行委員会に入って運営したり、それはそれはたくさんの時間と労力を費やすわけ。あれと一緒。

ただ、その規模が大きいというだけのことなんだよね。

学園祭と違うのは、失敗が許されにくい環境だってことかな。いや、失敗して良いんだよ。良いはずなの。チャレンジして失敗して、そんなの当たり前のことじゃん。それを許さないことのほうが異常なんだと思うんだ。結構後ろゆびさされたりすることも多いんだ。あいつは、調子に乗ってあんなことやったけど、結局失敗してやめちゃったじゃないか。なんてね。

失敗しても良い環境を作ることからはじめなくちゃならないので、そこが学園祭のようにはいかないところかもしれない。

ぼくがいまやろうとしているのは、失敗してもOKな環境づくり。チャレンジを応援して、失敗しても応援し続けられるサポーター。チャレンジする人のファンになるサポーター。結局愛情じゃん。というね。人の心の動きの部分をデザインできないかなと思う。

それから、チャレンジする人も失敗を気にしないでチャレンジできる環境。極端な話だけど、誰かにマイナスなことを言われたとしても、気にならないってことでも良いんだと思うんだ。気の合う仲間の間ではちゃんと応援されていて、承認されている。それだけでもチャレンジ精神は保たれる。あまり良いやり方じゃないかもしれないけれどね。分断を生むから。

ぼく個人は、面白いからやる、ただそれだけ。そして、同じような遊びを楽しいと感じる人もいるだろうと思っている。一緒に遊ぼうとしてくれる人が、そんな面倒なことがあるならと躊躇してるのはもったいない。だって、一緒に遊んでくれたほうがぼくが楽しいから。だから、少しだけ手を回して、遊びやすい環境を作り出しておこうかなって思ってる。

今までも先輩方がやってくれたようにね。

でも、ホントはそこも一緒にやったほうが良いよ。そういう面倒なことも一緒にやる。そして、面倒なこともゲームとして遊んでしまう。なんとなく、情報もないままに叩く人を味方につけるというゲーム。応援したり手伝ったりしてくれなくてもいいから、邪魔しないくらいでOK。応援し始めたら追加ボーナス。手伝い始めたらさらにボーナス。っていうゲームね。

そんな感じで、勝手にまちを題材にして遊んでるだけなんだ。

今日も読んでくれてありがとうございます。何年も前から一緒に遊んでいる仲間がいる。こうした方が街のために良いって感覚もあるはあるんだけど、そこはオマケなんだよね。どうせ、企画の設計段階でそれも盛り込んでるし。面白く遊べるかどうか。これが一番かな。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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