選択回避の法則というのがある。らしい。20年くらい前に読んだ本に載っていたことだから、どんな文脈で書かれていたのか、そもそもそんな法則があるのか知らない。だけど、なんだかずーっと記憶にあるんだよね。ほら、いっときマーフィーの法則って流行ったじゃない。たぶん、あの時代のどこかで触れたんだと思うんだ。って、わからないか。
選択肢を多くしすぎると、選択すること事態をやめてしまうって話。
ベビーカーを購入しようとしている夫婦がいるとする。ある店では6種類が並んでいて、べつのある店では30種類が並んでいる。どちらが売れたでしょうかという問題。答えは6種類のベビーカーを並べていたお店の方が売上が高かったというのね。
選択肢がたくさんあって、自由に選べるほうが良いように思える。なんだけれど、実はとても負荷が高い状況でもあるんだ。選択するということは、脳のエネルギーをたくさん消費する。比較検証は、選択肢が一つ増えるだけでも大変になる。検証すべき項目が複数あるからね。30種類のベビーカーの価格、デザイン、色、安全性能、快適さ、丈夫さみたいな項目を全部インプットして、その中から自分たちにとって最適なものを選び出すというのは・・・。たしかにかなり大変な作業だよね。
こういうのが、好きで楽しいという人もいる。一方で面倒だというひともたくさんいる。ということがあるよっていう法則なんだって。
自分の意志で選択するということは、自立するということと同義のように思っている。自分の意志で立つ。そして、その結果に対しても自分で受け止める。自立ってそういうものなんじゃないかと思うんだよ。だけど、選択回避の法則は、ぼくの考える自立とは異なった結果を示しているんだよね。これ、一体どういうことなんだろうか。
30種類も並んでいたら、店員さんにアドバイスしてもらうかもね。プロとして、ぼくたちの条件に合いそうなものはどれかって。そう言えば、量販店で販売員をしていた時はそうだった。たくさんある商品群の中から、お客様に教えてもらった条件に近いものを数点ピックアップすること。そして、それぞれの適合具合を説明すること。これが基本。
これは、選択回避なのかな。いや、最終的に購入しているもんな。回避とまでは言わないんじゃないだろうか。というと言葉遊びになりそうだな。
選択はしている。そうだ。自分ですべてを比較するという行為は放棄する。その代わりに、店員さんに絞り込んでもらうという行為を選択した。その人の知見を信じるという行為を選択したということになるか。プログラミングのレジストリをまるごと利用する感覚に似ているかもしれない。アウトソーシングといえばそうかもしれない。
となると、結果を受け止めるってどういうことだろう。もし、気に入らない商品を購入した時に店員さんの責任にするのか。いや、自分の選択に対する責任という意味では、店員さんに選んでもらうという選択をした自分に責任がある。任命責任みたいなもんだ。プロであることを見込んで依頼した。依頼するに値しないと判断したら、別の方法を選択すれば良いということだ。ということになるのかな。
だとすると、「○○店の店員」という肩書をなんの検証もしないで選択してしまうことが問題なんだろうな。
これ、選挙と一緒なのかもしれない。日本は民主政。主権は国民ひとりひとりが担っている。だから、誰でも政治に参加できるわけだ。けれども、全員が参政するわけにはいかない。政治以外の社会活動があるからだね。それに、他のことをしながら政治のすべてを理解して行動するのは、とてもエネルギーが必要だ。だから、人を選ぶ。任せるという選択肢を選ぶという構図なのかな。
今日も読んでくれてありがとうございます。なんでこんな話になったのか分からないけど、まあそういうことだ。すべてのジャンルで細々と選択することは合理的ではないから、専門パッケージに任せるという選択をする。この構造が、社会のありとあらゆるところにあるんだという気がしてきたよ。