パーソナライゼーションと食。そんなタイトルでモノゴトを考えている人達がいる。世界では個人にあった食をDNA解析から読み解くサービスまで登場している。そういった流れは主に、欧米文化圏から到来している。さて、ぼくたちはこれをどう解釈してどのように体現していくのか。
上記の文脈から「食のパーソナライゼーション」という話を語りだすと、どこかしっくりこないんだよね。個食ってさ。どうなんだろうね。ということになる。
そもそも、パーソナル、つまり個人をどのように捉えるのかって話をしなくちゃいけなくなりそうだな。
個人主義というと、ぼくはぼく、あなたはあなたという枠でモノゴトを考えがちなんだけどさ。でもね。社会の中で関係的に存在する個人という考え方もあるじゃない。ヨーロッパ的、東洋的なんて言い方をするとステレオタイプになっちゃうんだけど。大まかにそのような傾向もありそうだと思う。
仏教では、私とはなにかをとことん突き詰めている。らしいよ。ちゃんと勉強したわけじゃないけれど、どうやら原始仏教の本をさらっと読んだり、話を聞いたりする限りはそうらしい。その中では、私とは私以外の全てではないものである、という概念がある。となると、「私とは何者か」を語る上で、「私以外のもの」を定義しなくちゃいけない。
この話を追求していくと、ぼくの理解の及ばない世界まで進んでいく。それに、たぶん一生を費やしてやっと体現できるレベルに到達するかどうかという領域だ。だから、これ以上進むのはやめておく。今回の「食のパーソナライゼーション」の話でポイントになりそうなのは、「私」の定義の仕方が「関係的」ということだ。
個人の定義が、社会との関係の中で成り立っているという観点に立っている。これに対して、例えばデカルトの個人というのは少し違うようにも思えるんだよ。我思う、故に我あり。めちゃくちゃ有名だよね。方法序説だったっけ?それこそサラッと読んだだけだけどさ。
我思う故に我あり。これは、関係的な観点じゃないよね。絶対的な個とでも言うのかな。概念的かつ哲学の話だから、迷宮に迷い込みそうだけど。Aは、何者にも左右されないAだ。というのと、Aは他のB~Zとの関係性の中で成立するAだ。という違いがあるようにも見える。
さあ、ここからが本題だ。
食のパーソナライゼーションを語る上では、それぞれの世界に存在する個の捉え方を把握しなくちゃいけないんじゃないかな。もちろん、上記の例以外にもたくさんあるだろう。ぼくが知っているのはこのくらいしかないんだけど。この前提に立った上で、どうするかってことを話し合うっていうのが良いのだろうと。どちらのほうが良いか、という議論だけは避けたいところだよね。そういうものじゃないじゃん。だって、文化だもの。絶対的な正を作らないほうがよりよい世界に近づくような気がしてるんだよね。それこそ、感覚や情緒なんだけど。
多様性を認めつつも、どこかに融合点みたいなものもあるかもしれない。それこそグラデーションなんだろうけどさ。
個食の対義語としては、共食が挙げられるのかな。こっちを掘り下げると、パーソナライゼーションが見えてきそうな気がする。パーソナライゼーションと対立しないだろうけれど対立しそうに見える食文化を徹底的に掘り下げてみる。そうすると、意外なところで接点が有ったりして面白そうじゃない。そして、結果としてパーソナライゼーションの姿が見えてきそうな気もするんだ。
今日も読んでくれてありがとうございます。今日は、とても概念的な話を書いてしまった。読み返しても自分で何を言いたいのか不明瞭なんだよなあ。けれども、ここをとっかかりにして色々と探究してみたい気がしているよ。