食はエンターテイメントであっても良い。普段からそう言っています。食事というのは、本来であれば生命維持活動そのもの。人類が獲得してきた能力は、もともと食糧を得るためのもの。
大昔の祖先は、木の上で生活していて木の実や果実を主食にしていたと言われている。他の哺乳類のほとんどが識別できない赤色を認識できるのも、熟した果実を見分けるためだ。嗅覚だけじゃなく、視覚でも認識できることは食糧獲得のためにとても重要なことだったらしい。
サバンナのような環境になって、大きな樹木がなくなってから、仕方なく地上で生活するようになった。そのせいで、手を使うために二足歩行を獲得したわけだ。狩りをするために遠近感が必要になり、目が今の位置になり、道具を操り集団生活を送る。
乾燥地域で効率よく、安定的に食糧を確保するために農業を始める。そのために、計画性や集団行動や規律が生まれ、暦や数字がうまれ、後の科学へと続いていく。基本的に人類は「食べる」ために進化してきたと言っても過言ではないんだろうね。生きるために食べるのだけど、食べるために生きているとも言えるって、妙な感じがする。
ところで、冒頭の話だけど。もう、現代においては「生きるために食糧を確保する」ということは、あまり気にしなくなった。もちろん、今でも世界のどこかでは食料確保に困っている人がいるのは知っている。だけど、「衣食足りて礼節を知る」の通り食が足りなければ、世が乱れるということだ。その点では、日本は安心していい。多少の問題があったとしても、比較的マシな時代になっていると言える。
食糧問題はちょっと横においておくね。これも語りだすと長くなるから。
食が足りたところで、ただ量的に足りているだけでなく、栄養面もちゃんとバランスが取れているのがいい。そして、こころの充足感も満たしてくれるものがいい。それが美味しいということだ。美味しいということは、人間が本能的に幸せを感じられる事柄なんだと思うんだよね。
これが、いまちょっとおかしなことになりつつあるなと感じている。料理に関する研究が進み、調味料や科学的なアプローチでも「人間が美味しいと感じる」という分野は発達した。なのだけれど、旨味や甘味があれば美味しく感じられる、という安直な答えでいいのだろうか。数値で管理した「オイシイ」が全てではないのだろうと思うのだ。
食べ物や料理は、もはや頑張らないと不味く作るのが難しいという状況だ。こだわりを捨てれば飲食を仕事にすることは容易い。「オイシイ」「ヤスイ」だけでも、たぶんビジネスは出来るだろう。だけど、それって「人」が置いてきぼりになってやしないかな。
食べる人はもちろん、生産者や料理人、そしてそれぞれの食を介したキャッチボール。あと、食事は誰と一緒にするかというもとても大事なことだと思っている。どういう雰囲気かも。そういう、数値に置き換えられないストーリーを含めて、美味しいと言っている。楽しいと言っている。それが、幸せと言っているとね。
いつもの暮らしの中で、もちろん幸せを感じる瞬間はいっぱいあるはず。だけど、ときには「幸せだなぁ」って気づきなおす時間を作ってもいいんじゃないかな。というか、たぶんみんなそうやって時間を作ってきたんだと思う。恋人や家族と旅行に行ってみたり、映画を見に行ったり、食事に行ったり。ちょっとした非日常を作り出すことで、いつもの暮らしの中にある幸せを見つけやすくする。そんな感じかな。
今日も読んでくれてありがとうございます。大層なことが出来るわけじゃないけれど、数値で表せない幸せは、いろんなことで獲得できるんだけど。そのひとつとして、ぼくらのような料亭が機能していってもいいんじゃないかと思うんだ。贅沢するためというだけじゃなくてね。