エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 食べ物を知ると人がわかるかも。 2021年8月1日

2021年8月1日

食べ物の歴史って、あんまり深く語られることは少ないけれど意外と奥が深いんですよ。人類が動物として生きていく上で何を食べて生きてきたのか。それは、人類史そのものだと思うんだよね。

17世紀までのヨーロッパでは、食器が発達していなくて手づかみで食べる文化だった。フォークとナイフを使って食事をするようになるのは近世以降なんだって。フィンガーボウルってあるでしょ。料理を手づかみで食べたときに指先をちょっと洗うために、水を持ってきてくれるんだけど。それも、その頃の名残らしい。
宣教師ルイス・フロイスが日本にやってきた時に記した手記の中で「日本人は箸を使って食事をしているのに驚いた」とある。これは、箸という存在が興味深いとも取れるけれど「手づかみではない」ということにも驚いているらしいんだよね。

食器ひとつとっても、その地域ごとで違いがある。ぼくらが常識だと思っていることが、全く通用しないことも多い。そういうことを知っていくと、どんな生活習慣だったのか、どんな思考をしていたのかが透けて見えてくるから面白いんだよね。
地域によって、食べ物そのものが違っていて、それに伴って食文化も違っていて。その延長上にどういう歴史文化を築いてきたのか。そういうことがわかると、今目の前にいる人がどういう文脈で発言しているのかを理解する手助けになるよね。ぼくが聞いて「なんだそりゃ」と思ったとしても、よくよく背景を知ってみるとその人なりのストーリーがちゃんとあって、合理性があるんだよ。自分とは違う意見をまるごと受け入れる必要はないだろうけれど、お互いにとっての丁度いいところを探るきっかけにはなる。そうやって、違う意見を持った人たちと融合していくのが平和に社会を進めていくことなんだと思うんだ。争うのではなくてね。

日本人が箸を使っているのは、それに見合う合理性があるからだよね。学生の頃にブラジル人の友人と一緒に食事をしていて、箸なんてものを使ってるのは馬鹿げていると言われたことがあるんだ。その時食べていたのはピラフとスープだったかな。わかると思うけれど、ピラフもスープも箸だけだと食べにくいんだよ。お米はパラパラしているし、スープ皿を持ち上げてお椀みたいにすするわけにもいかないしさ。こういうのを食べるときにはやっぱりスプーンやフォークの方が便利。当たり前だよね。
一方で、日本式のお米。ぼくらが知っている粘り気のあるご飯を食べるときは、スプーンだとかえって食べづらい。お椀という形状は深さがあるからやっぱりスプーンでは食べづらい。お椀は持ち上げるときに軽くて食べやすいように設計されているんだよね。よーく考えてみるとスゴイことじゃない?
この時、友人にはうまく説明できなかったけど、サラダに残ったレタスの欠片を起用につまんで見せたときの反応がとても面白かった。最後のひとかけらまで残したくない「もったいない」精神を持っているぼくらと、欠片は食べかすの一部として残しても良いと考える彼と、それでも頑張ってフォークとナイフで食べる別の友人。食器がすべてを司っているわけじゃないけれど、なんとなく個々人の思考が垣間見えて面白いよね。
と思っているのはぼくだけかな。

ヨーロッパと日本の対比をしてみたけれど、世界中にはありとあらゆる食文化があってさ。もう全部違うんだ。違うんだけど、共通点もちらほら見えていて「人という動物の本質」みたいなものも察知できるような気もする。というあたりが、ぼくにとってはとても面白い。
食文化だけじゃなくて、生活習慣と言い換えても良い。こういうものが、ぼくらの思考回路に影響を与えているんじゃないかと考えてるんだけど、どうなんだろう。人類学の専門家はどう解釈してるのか知らないけど、ぼくにとってはそんな気がしてるんだよねえ。
皆さんはどう思いますか?

今日も読んでくれてありがとうございます。誰か一人がすべての食文化を設計したわけじゃなくて、生活に根ざして合理的に、便利なように工夫を積み重ねてきた結果が今。そして、その「今」も工夫の通過点だというのが、なんとも面白い。料理ってとても自由だね。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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