お城だとか、旧○○邸だとかの歴史的建造物は、数百年経って色んな人が見学に訪れるようになっています。かつては生活の一部分だったもので、言ってみれば実用品だった。時間の積み重ねって、スゴイよね。寝室やらリビングやら、場所によっては「こちらが400年前のトイレです。」なんて説明書きが付いているところもあります。
うちの店は大層な建物ではないのだけれど、もしも数百年先まで残っていたとしたら、やっぱり歴史的建造物のように色んな人が建物や風情を味わいに訪れるのでしょうか。できればその時も料理を味わってもらえていると良いなぁ。なんてことを妄想します。
ところで、そういう建物の廊下や部屋の端に竹が横たわっていることがありますね。長い青竹踏みのようなものが。ご承知の通り、ここから先は入らないでねという合図なのだけれど。時々気づかずに越えてしまう人もいるそうです。竹が落ちていると思ったとか、そういうデザインだと思ったとか、そう言われるのだとか。
確かにそう見えなくもなくて、立入禁止なら柵を設置したり張り紙をすれば良さそうだという意見もあるかもしれないですね。
けれど、それは文字通り合図としての記号なのだ。ある種の結界と言ってもいいかもしれない。直接顔を合わせる人ではないけれども、その人の心の有り様を信頼して合図を優しく置いた、そういう感性なんですね。
やんわりと、ふんわりと他者との繋がりを信じているようで、ヤマトらしいとも思うのです。
前菜、組肴、八寸などといって、一つのお皿に複数の料理を盛り込むことがあります。
さて、どこから箸をつけようか。あれこれ迷っているのはあまり美しいものではありません。味のバランスを考えて、味の淡白なものから食べようか、うんそうしよう。なんて考えていると、実にそれが見事に、手前の方に盛り付けられています。これも、合図なのでしょうね。
直接顔を合わせる機会の少ない料理人からの、やんわりとした合図。
モノで意思を通わせ合う不便さは、言葉の便利さには及ばないかもしれないけれど、不便だからこその楽しさや奥行きが感じられて、なんだか好きだな。
また少し気温が下がったので、少し体を温めてくれる料理を前菜にしよう。
フォークやナイフのように脇に縦向きに置くのではなくて、箸を手前に置くという作法は、ひとつの結界かもしれないね。これから命をいただくという時には、一旦結界を敷いて背筋を伸ばす。そんな心が働いているようにも思えます。