エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 料理は音楽に似ている② 2021年2月22日

昨日の続きです。料理が音楽ににているという話ね。

複数の人間が、それぞれの解釈で自由に料理を作っていって、それでもちゃんと一つのコースとして成立しうるのか。という部分は同じ料理人仲間からは不思議がられる。普通に考えたら、誰かがしっかりと指揮を取らないとまとまらないはずだからだよね。

実際、むとうでも僕か父のどちらかが「これでいこう」といった方針を示している。けれども、一番の肝になっているのは「粋」だと感じるものを共有しているからだと思っている。「美意識」とか「矜持」と言い換えても良いかもしれない。

音楽で言えば、演奏のクセみたいなものだろうか。少しルーズな音を出すのかかっちりした音を出すのかだったり、四拍子だったらどこにアクセントをつけるだったり、そういった部分が似ている。バンドメンバーの演奏を聞いて「お。それ良いね~」という感性だ。一番盛り上がる「サビ」みたいな部分はどこがいいだろうとか、エンディングはこんな感じが収まりが良いよねだとか、そういう大きな流れも似ている。そんなところが似ている。

で、実は「似ている」「共有している」というところがポイントだろうと思っている。言い換えれば、似ているけれども同じじゃない。全く同じだと発展性が無いのですよ。「それもいいけど、こっちはどう?」みたいな会話につながらないから。

こんなお店って、どのくらいあるのかな。なんとなく少数はじゃないかと勝手に思っているのだけれど、実際はよくわからない。ただ、僕は単純にこのスタイルが好きなんだ。確かに献立を考える親方もとてもしんどいし、任された人もとてもしんどい。一品一品の料理についても、毎日のように勉強して研究して独自に開発していかなくちゃいけないし、そうして出来上がった料理だって他の人には作れなかったりすることもある。最終的に味のバランスを取るのだって、親方はそのさじ加減が難しい。

だけどね。きっと楽しいと思う。料理を作ることが好きで料理人の世界に飛び込んだ人たちは、自分の感性で美味しいと信じるものを作りたいんだよね。僕の兄弟子だって「こっちのほうが美味しいと思うんだけどなあ。親方の献立通りに作るしか無いか」みたいなことを愚痴っていた。だったら、みんなが自由に料理を作れるような環境でも良いのではないかな。というのが僕の理想とする厨房なのだ。

自由を理想とするなら、見合った実力と努力は欠かせないのだ。というのは如何ともし難いのだけれど、それも含めてどんなチームにしていくかは、これからの挑戦だなあ。

今日も読んでくれてありがとうございます。バンドっぽい料亭で一緒に働いてみたいという人がいたら、一緒にセッションしてみましょう。ご連絡ください。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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