エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 値段の適正な評価 2021年2月24日

野菜の値段って不思議だなあと思うときがあります。とくに田舎のマーケットにありがちなのだけれど、同じ野菜はみんな同じ値段になっちゃうことがあるのです。本当に丁寧に作られていて味も質も良い大根と、青首の青い部分がたくさんある甘みの少ない大根と、同じように並んでいて同じ値段になっているのね。誰がどういう基準で値付けをしているんだろう。

ふぐにも種類があって、シマふぐというのがあるのだけれど。これを「ふぐ」とだけ表記して販売していた料理屋も昔はあったそうだ。ふぐはフグだって。でも市場ではトラフグの半額以下。シマフグだって美味しいけれど、やはりトラフグには及ばなくて安く値付けされている。この評価をちゃんと販売価格に反映しなくちゃいけないよね。

美味しい料理を作ることが出来て知識も技術もある料理人と、一定レベルの調理は出来るけど作業として料理をしている料理人と。同じお給料で良いのかな。

料理人じゃなくてもそうだけれど、働く環境で報酬って変わるじゃない。利益が大きいお店のほうがお給料だって良くなりやすいものね。それは当然のことなんだけど、大きい利益を出しているお店は調理作業員を主に雇用していることが多いから、腕のある料理人のほうが報われないということがあるんだ。人の価値を食材やモノと同じようには測れないだろうけれど、業界全体で見るとやっぱりいびつに見える。

「より良いものをより安く」も悪くはないけれど、「本当に良いものは見合った価格で」というのも良いのではないかな。つまりは、頑張っている本モノにはちゃんと正当な評価をしてあげたいなと思うのだ。逆に廉価商品はそれに見合った価格じゃなきゃよろしくないよね。

人間やその成果物を一律の基準で評価するのはとても難しいし、自由経済社会にはそぐわないのはわかっているのだ。ただ、感情としてね。頑張っている人は報われてほしいと思っちゃうんだよ。一所懸命で能力の高い料理人だって、僕の周りにたくさんいるんだもの。

お金が全てじゃないことはもちろんわかっているのだけれど、お金というのは評価基準でもあるからね。物心ともに満たされた状態にしたいんだ。そういう仕組を作りたい。というのが、経営者として会社としてのひとつの目標です。

今日も読んでくれてありがとうございます。僕が「ブラック業界からの離脱と救済」と言っているときは、論理よりも感情で言っていることが多いかな。こんなふうに感情も経営理念にしてしまう部分が僕にはあるんだなあ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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