エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 自然に消えていったものと復刻するもの 2021年5月30日

昔はこんな料理があったんだけど、今は廃れてしまって提供する店がないんですよ。という話を聞いたことがある。地方の名産品などを訪ねていくと、何回かに1度は聞くセリフだ。たまに、わざわざ復刻させて「名物」にしている地域もあるんだけど、「料理」としてはどうなんだろう。

廃れていった料理には、人に忘れ去られるだけの理由がある。というのがぼくの持論だ。もちろん復刻されることに何の価値もないとは思わないけど。廃れた理由をちゃんと見極めてから復刻したほうが良いだろうと思うんだ。

例えば、考えられる理由はこういうことになるのかな。
もっと良いものが生まれた
(→わざわざ進化する前に戻る必要はないもんね。美味しいほうが良い。)
食材がなくなった
(→絶滅したら無理。今さら鶴料理なんて出来るわけない。)
時代の味覚にあわない
(→現代の方が調理技術が進化しているからね。当然。)
手間がかかりすぎる
(→商売として成り立たないし、家で作るには大変すぎる。)
技術者が途絶えた
(→これは悲しい。現代なら出来ることもあるかもしれない。)

時代の変遷の中で、自然と淘汰されたものは復刻が難しいかもね。歴史的な価値はあるから、そういう付加価値を含めて復刻するならアリだと思うけどさ。自然に消えていったのではなく外的要因で、ある意味強制的に廃れていったものは復刻しても良いよね。当時は難しかった技術が、現代なら他の方法があるかもしれないし、ビジネスラインに乗せることが出来るかもしれない。その可能性が見いだせればだけど。

ずっと音楽活動をしている人が、ある時なにかの理由でギターの弦を切ったんだって。その人の友人はこう言った「お前は、いつか必ずまたギターを手に取る。それもそんなに遠くないだろう。本当に音楽から離れてしまうやつは、いつの間にかギターにすら触れなくなっていくのだ。」
ということを思い出したんだけど、なんとなくそんな感じにとらえているのかなあ。

料理の世界は、過去の料理が膨大だからね。ぼくが想像しただけの理由で収まらないんだと思うけど。社会技術や社会システムは、もう無理して復刻する必要もない。というか、復刻したところで実用性は低いでしょ。江戸時代の「町火消し」っていらないもん。現代で火事のたびに隣の家を破壊してたんじゃたまらないでしょ。駕籠だって、もう誰も乗らない。イベント以外に価値がないからね。価値がなくなったものは自然に消えていくんだよね。逆に価値が消えていないものは、縮小はしても消えることはない。魚を焼くコンロが発達しても、炭火で焼くことの方が美味しくなるのであれば炭火はなくならない。なくなったら困る消費者がいるからね。生産者が苦しくてもなんとか応援するだろう。

価値がなくなって消えていったものでも、かつてのこととは違う価値を見出すことができれば復刻することはあるね。お城なんかもそうでしょ。天守閣なんて戦争が起きる前提でしか役に立たないもん。それも近代の戦争じゃ全く役に立たないしね。当然、お城の御殿で政務をしているところなんてない。歴史的な価値だったり、アミューズメントとしての価値だったり。そういう、本来の価値とは全く別の価値があるから復刻することになるんだよね。

東海道中膝栗毛に出てくるような「宿駅」や「宿場町」は、実用的な価値はなくなった。「宿駅」は電車の駅に役目を移したし、宿泊需要も変化したから、それはしょうがない。だけど、いまでも宿駅がほそぼそとだが消えずに文化が残っていることを考えると、なにかしらの価値があるはずだと思うんだよね。それは、かつての価値ではないのだけど、今の価値ってさ。

今日も読んでくれてありがとうございます。東海道シンポジウム掛川日坂宿大会は、そんなことを見つめ直して再定義する機会でもあるのかなあ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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