エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 王道本質の力強さに打たれてみる。 2021年8月8日

昨日も世阿弥と能について感じたことを書いたのだけれど、もうひとつ「いいなぁ」と思うところを書いてみようと思います。
世阿弥の名著「風姿花伝」からね。
「しかれば、よき能と申すは、本説正しく、珍しき風体にて、詰め所ありて、かかり幽玄ならんを、第一とすべし。」(よい能というのは、正しい古典に典拠をもって、新鮮な趣向を凝らし、山場をきちんと設け、その演出に幽玄さを感じられるような作品を第一とすべき)

これね。ホントに大事なことだと思うんだ。新しいものとか奇抜なものは「面白いとは言われる。その一瞬は華やかで大胆で、耳目を集めることもあるんだけど、結局の所は続いていかない。こういうことってよくあるよね。珍しいスイーツは、いっときの流行になるかもしれないけれど、いつの間にか消えていったりするでしょ。ただ、その中でも定番になっていくものもある。白いたい焼きなんてのが流行ったこともあるけれど、今ではあまり見向きもされない。その一方でティラミスは残って定番になった。

どちらも、日本では珍しいと言われたものだ。白いたい焼きは、もともとあったものに工夫を加えたものだからマズイということはないのだけど、ただ普通の鯛焼きを上回るものが無かったんだろうね。ティラミスは、日本に出回っていない時代だから珍しかったと言うだけで、既に海外では定番のものだったのだから当然といえば当然。

長く残り続けるものには、意味があって残っているんだと思う。それだけ支持されているということでもあるからね。世阿弥が言う「伝統に裏打ちされ」と言う部分は、残って伝統になった実績のことを言っているんじゃないかな。それが「王道」。つまり、王道には王道になるだけの理由と実力があるんだから、それを無視して斬新さだけを求めたって残っていかないよとも言えるかもね。

日本料理コンクールというものがある。その年ごとで違ったお題があって、それに沿った料理を展示して採点される。味じゃなくて展示。だから「献立の構成力」とか「盛り付け」とか「技術」が注目されていて、その中で優秀な人が味の審査を含む次のステップに進むことが出来るってものだ。ぼくも去年は参加したのだけれど。こういうコンクールにもちょっと課題があると感じている。
コンクールそのものはあったほうが良い。それは、互いに料理の腕を磨くきっかけになるのだから良いんだよね。だけど、ついつい「奇抜」で「目新しい」ものに目が行きがちで、参加者もその意識が高くなることがあるんだ。ぼくには、これがなんとも歯がゆい。

父がよく言っているのだけど、普通のものを普通に美味しく作るのが一番難しい。ホントにそうだと思うよ。例えばさばの味噌煮。メチャクチャ定番だからこそ、実力差がはっきり出るんだもの。こういう定番に、自分なりの解釈を加えながらも、確実に美味しく仕上げることがどれだけ奥深いか。
ご飯が美味しい。味噌汁が美味しい。漬物が美味しい。お茶が美味しい。
こういうことがちゃんと出来ていて、それを適正なタイミングで提供する。そして、これを実施するために独自の工夫を重ねていく。そんなことが出来るのならば、逆に奇抜さが要らないのだということだ。

今日も読んでくれてありがとうございます。先日ドラマーの友人が言っていたよ。「奇跡的に初めてのときから8ビートを叩くことが出来た。だけど、今は8ビートは怖くて気楽に叩けない。」シンプルな基本を極限まで突き詰めた先にある感動。そういうの。伝統に裏打ちされ、皆が知っている内容に、新鮮さや面白さを付け加えたものが多くの人の共感を得る。そういうことね。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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