エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 反復練習とチャンスの神様 2021年9月20日

努力を積み重ねるというとき、何度も繰り返し同じ動作をして洗練させていくというイメージがついてまわる。もちろんそれだけじゃないのはわかっているけれど、そういう感覚になることが多いよねって話だ。

たぶん、ぼくらはそうやって色んな所で教わってきた。もっとやれば確実にうまくなるよ。とね。これは、ぼくだけじゃなくて、いろんな人の心のなかに根付いているのだろう。ぼくの中にも、それは直感と呼べるくらい根付いてしまっている。しまっているという表現は既に否定的だなあ。というのもね。それだけで本当に良い結果に結びついたことがあったっけ?という疑念があるからだ。

サッカーだって野球だって、バスケットボールもバレーボールも。反復練習で上手になるプレイっていうのはあるよね。それっていうのは、だいたいシンプルな基礎の部分。ぼくは他のスポーツのことはよく知らないのだけれど、サッカーだったら飛んできたボールをピタリと思い通りのところに止める技術だ。トラップね。

こういうことは、たぶん答えがある程度明瞭なのじゃないかな。そう、反復練習をすることで精度が上がっていくものというのは、正解へのルートが確立されていて、正解へ向かって練習するのだから。でも、それ以外のほとんど部分では反復練習が通用しない。なぜならば、環境も状況も変化し続けているから。同じ状況が再現されない限り通用しないものごとでは、反復練習は途中でその効力を弱めることになる。

周囲の人たちだって変わるし、社会の状況だって変わっている。なんなら自分自身もずっと変わり続けているわけだ。出来ることと出来ないことの境界線が変わるでしょ。だって、成長するもの。昨年まで来てくれていた常連のお客様がパタリと来なくなることだってある。こんなパンデミックになってしまったら、それまでの反復作業なんて無意味になることだってあるわけだ。

そう考えていくと、「何度も同じ動作を繰り返してうまくなる」という神話は万能ではないということが分かる。誰か答えを教えてよって言っても誰も知らない。で、そのなかで「どうしましょうか?」っていう問いに答えなくちゃいけないんだから、反復している場合じゃない。
スポーツなんてそうでしょ。プロフェッショナルだったら基礎技術は一定レベル以上にはあって、今の瞬間に現れた状況に対して、どうしましょうか?に解を出し続けているのが本質だ。世界中の優れたスポーツ選手は、優れた技術と優れた判断力の組み合わせで出来ている。

判断。これは思ったよりも大変な作業だ。その場に現れた状況を的確に把握して、その中から可能性のある選択肢を選び出す。優先順位をつけて。そして、それを可能にするための技術や体力があるかどうか、自分と相手との力量差も見極めなくちゃならない。実現する技術がない場合は、次善の策を講じる。そうこうしているうちに状況がドンドン変わっていくから、選択肢も変化していく。

普段から訓練してどうにかなるんだろうか。どうにかなるかどうか、ぼくにはわからないけれど、普段から心がけていることがあるよ。とりあえず、状況を把握しておく。常に状況把握はし続ける。見るだけでも良いから見る。そんな感じ。判断しなくちゃいけない場面が来た時に、例えばサッカーだったらボールを受け取ってから状況把握していたんじゃ間に合わないから。間に合わないというのは、慌てて状況把握を始めてわかりかける頃には状況が変わっちゃうということね。
それが、常に準備しておくってことのひとつかなあ。ってのは、ぼくの解釈ね。

今日も読んでくれてありがとうございます。チャンスの神様は前髪しか無い。過ぎ去った後につかもうと思っても掴めないよ。ってことに通じるような気もする。それにしても、なんで髪の毛の例えなんだろう。髪の毛を掴まれたら痛いじゃんね。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

-エッセイみたいなもの
-, ,