エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 勉強は大変で苦しいことか? 2021年10月20日

「勉強する」と聞くと、なにか高尚な行為のように感じる人もいるだろうし、大変で苦しいことだと感じる人もいます。ぼくも、そういう感覚を持っていた時期があるんだけど、実はそういうものでもないんだよね。勉強することは楽しいこと。3才の娘を見ていると「学ぶことは楽しい」と感じる。

「お手伝いする~」とか「こんなことが出来るようになったよ」とか、こういったセリフと同じテンションで新しく覚えたことを披露してくれるのが小さな子供。だよね。身近にいるからこそ気付くのかもしれないけれど、ぼくらだって幼い頃は同じような行動をしていたはずだ。それが、一体いつの間に「大変で苦しいこと」にすり替わっちゃうんだろうね。

「勉強しなさい」だと強制的だから、それが嫌な気持ちを助長しているかもしれない。だから「早く宿題を済ませちゃったほうが、もっと遊べるでしょ」みたいなことを言うよね。このセリフ自体が「大変で苦しいこと」を表現しちゃっているんじゃないかな。だって、「早く遊びに行ったほうが、楽しい勉強をゆっくり出来るでしょ」とは言わないし、言ったとしてもしっくりこない。しっくりこない。もうこの時点で、勉強は嫌なものと思っちゃっている。つまり、大人の側がそう信じているんだと思うんだよ。

これを、幼い頃から刷り込まれて育ったら、そりゃ「勉強は嫌なもの」と認識しちゃうかもしれない。もはや刷り込みなのだ。「嫌だ」というのは、感情だからさ。そこにロジックなんてないわけよ。甘いものが好きとか、苦いのが嫌いとか。そんな類の「感情」。だからこそ、刷り込みの影響が強いのじゃないかと思うわけ。
ということは、逆もしかり。
幼い頃から、勉強は楽しいと思い込んでいる人は強いよね。だって、学ぶことが面白くてしょうがないんだもの。好きで勝手に学ぶわけ。学校の成績とは関係なく、レゴやゲームに夢中になるがごとく。勝手にやる。

新しいことがわかったら、大人も一緒に面白がっていると良いのかな。そう言えば、祖父母はそうだったかもしれない。幼い頃は「なんで?」「これはなに?」と訪ねまくっていた。たぶん、ほとんどの子供はそうだったはず。それに「なんでだろうね。一緒に調べてみようか」と付き合ってくれていたし、「へえ、そうだったんだ。面白いね。私も知らなかった」というスタンスで居続けた。
読書家の祖父母のことだから、知らないはずはないんだけど。しきりに調べ物や実験を楽しんでいたんだよ。そんなんだから、新しく知ったことはすぐに報告していたなあ。学んだことを「ねえねえ、聞いて」と言うのは、世界中の子どもたちが経験することなんじゃないだろうか。全員かどうかは知らんけど。

しばらく前まで、「本を読んでいる暇があったら仕事を進めなくちゃ。」という脅迫観念があった。会社を背負っているから、と勝手に思い込んでさ。だけれども、学ぶといろんなことが見えてきて、新しい発見もあるし、忘れていたことが蘇ってくることもある。その結果、目の前の事業の筋道が見えてくることもある。勉強したことが、仕事や生活に実装されることはこんなにも面白いことなんだ。
理屈じゃなくて、体験が体に喜ぶ「感情」を再インストールできたんだよね。感情の刷り込みって、おとなになってからでも出来るんだ。という発見。

今日も読んでくれてありがとうございます。我が子だけじゃなくて、色んな人の「勉強は嫌なもの」が「学ぶと楽しい」に変わったら、世の中の仕組みが少しばかり変わるのだろうか。というような大きなことは、ぼくには全くわからないけれど、とりあえず40の手習いが止まりません。

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武藤太郎

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