エッセイみたいなもの

今日のエッセイ すごくて変な人 2021年11月5日

最近気がついたのだけれど、何かの能力に特化している人って、他のところが著しく欠損しているケースが有るような気がするんです。欠損といっても特別なことじゃなくて、例えばコミュニケーションが苦手だったり、生活の中の当たり前のことを知らなかったり。

だいぶ前の話だけれど、とある歌手が「普通の人が当たり前にやっていることを知らなくて愕然とした」と言って、数年の間活動休止をしたことがあった。ぼくなんかは、そういう世界にいるとそんなこともあるんだな、という程度に受け止めたくらいのものだった。ただ、そのときに側にいた友人は全く違うことを感じていたんだ。あの歌手がもっている世界観は、一般人と違う生活感を持っているからこそなんだよ。だから、一般人と同じ目線になっちゃうと、世界観が崩れる。そういった彼もまた、一人のミュージシャンだったから、なんとも説得力があるなと感じたものだ。

そういう目線で周囲を見回してみると、案外同じようなことがたくさんあるんじゃないかという気がしてきたのだ。そうだ、と思って世界を眺めているから変なバイアスがかかっている可能性もあるけどね。

中学生の頃の校長先生の話だ。ぼくが在籍していた中学校は大学の付属校だったから、校長先生といえば大学の教授が赴任する習わしだった。最初の校長先生は、英文学の教授だったから全校集会などでのスピーチはとても流暢で、ウィットに富んだものだった。ところが、その後に赴任した校長先生はびっくりするくらい話が下手だったんよね。生徒から見たら、変な人が校長先生になっちゃったなあという感想。生徒とのコミュニケーションもうまくいかなかった。
そこで、校長先生と3年部の生徒6人グループで毎週一度は一緒にお昼ごはんを食べようということになった。学校としてなのか校長先生の発案なのかわからないけれど、まあ、コミュニケーションを図ろうということだったんだろうね。

ぼくの順番が来るまでに、他の生徒が会食に参加していたのだけれど、評判は芳しくなかったんだ。そして、自分の番になってその訳がわかった。少人数でもあまり会話が弾まないうえに、お弁当の食べ方が独特だったんだ。ぼくが見た校長先生のお弁当には、サラダとしてレタスやトマトが入っていたのだけれど、生徒の話を聞きながら、手づかみで文字通り「ムシャムシャ」と食べていた。汚いという印象はぼくにはなかったのだけど、変わった人だなということくらいは思った。それを見た女子は、食べ方が汚いと評した。

それから、しばらくして高校受験も終わった頃のことだ。3年生を対象に校長先生の講話を聞く機会があった。2時間くらいだったと思う。今思えば、環境生物学の第一人者でもある教授の講話を聞くことが出来たのだから、それだけでも中学生としては凄いことだ。そして、その講話は実際にとても素晴らしかった。論理立っていて、中学生にもとてもわかり易く、ときにジョークを交えた楽しいものだったんだよ。ぼくらは、ほとんど全員が度肝を抜かれた。このジャンルに於いては、凄まじいまでの能力を発揮していた。後に聞いたのだけれど、校長先生はこのジャンルでの権威といえるくらいの先生だったらしいのだ。

例を挙げたらきりがないかもしれない。生活習慣というところで何か欠損が発生するくらいにひとつのことに集中してきた人の特徴だろうなあ。
周りの人を見ると、そういうタイプの人っているじゃん。まだ、特殊能力を発揮しきれていないから目立たないけれど、尖っているがためにどこかが欠損している。そういう人って、このあと大人物になる可能性を秘めているのか、それともなんともならないのか。極端に振れそうな気もするんだよね。

今日も読んでくれてありがとうございます。この話を母としていてたら、私もあなたも大した事なさそうだねということになった。だって、大抵のことは卒なく80点くらいでこなしちゃうからって。なんだか、自分の凡人レベルを痛感したのでした。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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