エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 思考文「研鑽」の続き 2021年11月24日

昨日に引き続いて「研鑽」について思考を深めていこうと思います。

昨日は、「情報のインプット」から始まって、その「解釈」までだったよね。そして、解釈に必要な思考方法について、どう深めていくのかって話になったんだった。

思考方法って、他にいい言葉が見つからないのだけれど、何か無いかな。手順というとなんだか違うような気もするしさ。なんだろうな。情報を解釈するときに、どんなアプリで処理をするのかってことだよね。視点を変えるということもあるしさ。前提や環境が違ったらって想定するだけでも、考え方が変わっちゃうことも有る。平たく言えば「考え方」なんだろう。意味づけっぽいニュアンスもあるか。

ぼくらが触れる情報というのは、「事実」と「解釈」がごちゃまぜになっている気がする。本を読んでも、誰かから聞いても、それは話者の解釈が既に含まれているでしょ。その人のフィルターを通して見た世界観だもん。辞書でさえ語釈に世界観が反映されているくらいだから、ファクトのみが記載されている書籍は珍しいんだろうな。だから、両方を同時に受け取りながら、両方を自分のフィルターで分離して処理していくことも必要かもしれない。必要とまではいかなくても、意識しているだけでもいいか。とにかく知っておくと便利だよ。

解釈したものを、誰かに話す時。ここに自分のフィルターが入らないってことはありえないだろうな。だから、お互いにそういうものだと思って対話するのが良いだろう。研鑽なのだから自分ひとりでやればいいって思うかもしれないけれど、書籍を読んでいる時点で誰かの言葉を受け取っているわけだから、そこを意識する必要がある。
そうなると、話者の視点や立ち位置や背景を知るということも、ある程度は欲しいよね。この人、なんでこんなこと言っているんだろう。って思うこと無い?特に、全然違う国や文化の人だったり、歴史上の人物だったりすると、置かれている環境が全然違うから。

お?なんだか、学問チックになってきたぞ。

研鑽を目的にしておくと、面白がることができるかも。へぇ、そういう考え方をするんだ。面白い。ってくらいの感覚。自分と違う思考回路だと、怒り出したり否定する人もいるけれどね。それって、情報も解釈も思考方法も、みんなシャットアウトしているわけだ。排除。それだと、学びにならないもんね。このスタンスだけは、必須かもなあ。「べき論」は好きじゃないけれど、これだけは「べき」かも。
思考が違ったら、面白がりつつも意見をしたらいい。なるほどね~。ぼくの場合はこう考えるよ。くらいの感覚で良い。それで、相手も同じように面白がればいい。そんなんだと良いよな。

そのための、必要な環境のひとつとして、心理的安全性が挙げられるかな。これ言ったら否定されるとか、反論されるとか、そんな環境だと何も言わなくなっちゃうからさ。そうなると、心理的安全性とか信頼ってのも複数人で研鑽に向かう場合は、よくよく気をつけて環境を整えなくちゃだね。あと、心のケアも。

研鑽をテーマに掲げた団体は、商工会議所青年部以外にも数多く聞く。けっこうある。フラットに意見を聞き会える環境って、みんな作れているのかなあ。これが無くなったら、ぼくはサクッと退会するけれどね。思想思考の自由を侵害されるのはまっぴらだから。

今日も読んでくれてありがとうございます。だから、研鑽には交流がセットなんだろうね。どちらか一方じゃだめなんだ。両輪回してこそ成立するものなのかも。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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