エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 「たべものラジオ」こぼれ話 2022年1月13日

「たべものラジオ」のこぼれ話です。
そろそろ、開始してから50話を迎える。大した数ではないのだけれど、ちょっとは頑張ったなという気がしてくる。そんなことは本筋とは関係がない。

ビールのストーリーを勉強していて、どうやら感覚がちょっとおかしくなったようだ。
今から1万年以上前からスタートしたんだけどさ。もう気が遠くなるくらいに昔じゃない。だから、ヒルデガルト院長がビールにホップを使う製法を確立させた1100年頃が、比較的新しく見えちゃうんだよ。
そうなると、本能寺の変はもっと最近の出来事なのだ。

これだけ、長い時間軸でひとつのたべもの、まあ今回は飲み物だけど、ずっと見ているといろんな人物が登場するじゃない。有名人として、現代にまで名前が伝わっている人もいるしそうじゃない人もいる。有名人とは言っても、当時から有名だった人も、後の時代に有名になった人もいる。良い功績なのか悪いことなのかも違う。

そんな中で、社会で力を持っていた貴族とかジェントリーとかが登場する。ビアハウスやパブの店主も登場する。名前なんて知らないし、残ってもいない。だけど、誰かが新しいことをはじめて、それがそのまま慣習になったり、新製品に繋がっていったりすることもあるじゃない。

歴史という膨大な時間軸で見ていくと、すっかりナモナキヒトの扱いを受けるのだ。
大聖堂の周りに飲食店をはじめて作った人は、きっと大儲けをしたはずだ。領主も一目をおく存在になったかもしれない。その辺りの土地ではそれなりに知名度のある人だっただろう。
ぼくは全く知らないけど。

とまあ、そんな存在なんていくらでもいる。
現代に置き換えたら、ぼくらの大半はそういう存在だ。カエサルや織田信長やガンディーと並ぶような知名度は発生しないだろうね。

三井高利は、後の三井財閥の基礎を築いた江戸時代の豪商だね。知ってるよね。越後屋を江戸に出店したじゃん。三越だよ。
・・・と言われても、知らない人のほうが多いだろう。
そんなもんなのだ。
柳井さんや孫さんでも、数百年後にはどの程度の知名度が残っているのかはわからないよね。三井高利ですらそんなものなのだから、ぼくたちが歴史に名が残らないのは当然といえば当然。

別に名前を残すことが全てじゃない。むしろどうでも良い。その頃にはぼくはいないはずだから。少なくとも現世にはいない。かと言って天国やあの世があって、現世を見るという思想もない。

虚しいということも特に無い。けど、逆にメチャクチャな権力を持ったところで、そんな程度かということも感じる。どっちでも良いじゃないかと。
そうなると、個人がどう幸せを感じながら生きていくのかということが大切に思えてくるから不思議だ。そのうえで、存在したことが誰かにとって勇気を与えるようなことに繋がったら良いなということを願うくらい。

今日も読んでくれてありがとうございます。「たべものラジオ」なのに、人生観まで変わってしまう恐れがあるラジオです。って、そんなことを思うのは少ないかもなあ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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