エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 頼まれ仕事が大半かもね。 2022年1月27日

まれに、ホントになにかのきっかけで講演会のご依頼を頂く。何についてしゃべるかはその時々なのだけれど、たいていの場合に話すことがある。

なにかの始まりはたいてい「受け身」だということだ。

過去に話したことのある内容だと、町づくりの活動事例だとか、学校での社会人講話では商売の話、それからスピーチについてだったり、自己紹介を120分やったこともあったっけ。

そのどれであっても、受け身の話をする。

全ての仕事は受け身でしか始まらない。なんてことは無い。自らこういうことをしたいと思って始めることもたくさんあるよね。だけど、案外依頼を受けてからがお仕事になることが多いなと思うんだ。

来月も講話の機会を頂いているのだけれど、それも先方からお声がけいただいたからだ。

そもそも、講話なんてものは、依頼がなくちゃ成立しないのだ。

掛茶料理むとうで食事をしたいと思ってくださるお客様が来店されるから、料理を作るわけだしね。話を聞きたいと思ってくれる人がいるから講話で一生懸命に話をする。まちづくりだって、自発的に行っているようだけれど、こんな街だったら良いよねという思いが市民の一部にはあって、それを具現化するための活動だ。

自分から話したいと思って喋りまくっているのは「たべものラジオ」くらいのものなのだ。

受動的な仕事が世の中にはとても多いような気がする。

だからこそ、面白くする工夫が必要なのだと思うんだ。

講話じゃなくても、仕事の多くは受動的だ。ぼくじゃない誰かがやっても良い。料理だって、ぼくじゃない誰かが作った料理でも構わない。窓掃除とか庭の掃除なんて、別に能動的にどうこうするもんじゃないかもしれない。やっている本人が面白がって庭の掃除をするケースは少ないだろう。

だからこそ、どうやったら窓掃除を楽しめるか、窓掃除で誰かを楽しませられるか、を考えるんだと思うんだよね。

作業を仕事に変えていくこと。

受け身だとか、受動的だとか、消極的なことばっかり言っているけれど、言い換えるとニーズの話だ。顕在的、潜在的問わず、ニーズがあるから成り立つ。ニーズがなくてもやりたいからやるということは、趣味の世界なんだろう。それも自分というニーズがあるからだけど。

他のみんながやっていることを、どれだけ面白く出来るか。そういうことがとても大切に思われるような時代にいるんじゃないかと、なんとなくおぼろげに思うんだ。

産業革命以降、いろんな作業を機械がやってくれるようになって、コンピューターがやってくれるようになって、料理だってある程度のレベルまでは機械的に作れるようになっちゃった。現代では、飲食店で不味い料理を作るほうが難しいとまで言われるくらいだ。冷凍食品も、昔に比べたら格段に美味しくなってきたしね。

だからこそ、その先には「楽しい」とか「おもしろい」があって、そういう感受性が重要になるんだと思うんだ。効用価値説を語り切るほどの知識は無いのだけれど、その一歩先にあるもの。

原価から売値を算出するような工業的な視点から、買い手が価値を感じたものがその価格に反映される。それも、市場でみんなんが良いと言っているからという理由じゃなくて、お金を出す人自身が感じているという理由でね。

今日も読んでくれてありがとうございます。確信はないけれど、人々の喜怒哀楽が価値基準になるような世界になると良いよなあ。と思っています。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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