エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 現代の料理は「遊び」なんだろうなあ。 2022年2月13日

料理はもはや遊びなんだろうなあ。元々はもちろん違う。生命を維持するために必要なエネルギーを摂取するという行為だ。他の動物や植物が行う栄養摂取と変わらないのは揺るぎない。

本来の目的だけだったら、別に味なんかどうでも良さそうなもんだ。ライオンは何の味付けもしていない生肉を食べるわけだしね。ほとんどの動物は味なんか気にしない。

人類は「美味しい」ってことに、やたらと敏感だよね。人類誕生の頃からそうだったのかな。どうだろう。食料の奪い合いみたいなことは、野生の動物だってある。人もやってきた歴史があるんだけど、どうも「ただの食料」の奪い合いじゃない部分があるように思えるんだよね。「美味しい食料」の争奪戦。そんな感じがする。

そのくらい「美味しいこと」に敏感なわけなのだけれど、美味しいの範囲がまた広いんだよね。味覚として美味しいっていう感覚。個人差はあるけれど。「味そのものが良いということ」だけじゃなくて「雰囲気」だったり、「見た目」だったり、「匂い」だったりと様々な要素がある。

味覚だって、舌だけで捉えているわけじゃないんだって。苦味成分や酸味は胃でも感知しているらしいよ。

もう見た目とか、演出なんて、本来の動物的な食料摂取から考えたら「たべる」とは違っちゃってるんだ。モノゴトは全て流転する。ってことか。

料理は、もう遊びとしての余白がとても多いってことになる。いい意味で無駄がたくさん含まれている。

もうね。凝った料理なんか、遊びでしか無いの。

作る方も食べる方も、そういう感覚で料理を楽しむってことでどうだろうか。

遊ぶって、どういうことだろう。

こんなことを考えるような人も、きっと世の中にはたくさんいて、参考になる哲学者もいるんだろうけれど。ここは自分で独自に解釈してみよう。

まず。沢山の人は「遊ぶ」のが下手だよね。ぼくなんか、遊ぶってどういうことだ?なんて言っているくらいだから、完全にこじらせてるもの。もう考えずに遊んだら良いのにね。

下手だっていうのは、たぶん変に意味を求めちゃうことなのかもしれない。遊びに意味なんか無くて、意味を考えたら遊びじゃなくなる。どうでも良いことだから、楽しく遊べるのだ。ビジネスの役に立つとか、成長につながるなんて考えたら遊びじゃなくなっちゃう。後から振り返ってみたら結果として役に立つことがあったなあ。というくらいで、遊んでいるときやその前に意味を考えたら駄目なんだろうなあ。

ここが、「日本人は遊ぶのが下手」と言われている所以かもしれない。

無駄。

これが遊びの中には含まれていそうだよ。

ルールが設定されていることが多いかもね。言い換えると制約かな。無くても成り立つのかもしれないけれど、制約があったほうが盛り上がる。サッカーなんてメチャクチャですよ。人間にとって最もコントロールしやすいはずの手を使わない。わざわざ不便さを作り出して遊んでいるわけでしょ。そして、それ自体がおもしろいと感じているから、能動的に従うんだ。

不便さを楽しいと感じる。

遊ぶっていうのは、そこにもありそうだ。

今気がついたのだけれど、食事の作法なんかは敢えて遊びのための制約なのかも。それを面白がれるかどうかってことか。日本料理だって、肉を使わないとか精進料理なら野菜じゃなきゃ駄目といった制約があったからこそ進化してきたんだろうし。

だから、料理の形式の意味は「遊びを楽しむため」として存在していて、他の意義は後付で作ったのかもしれない。後付で作ったということ自体も遊びなのかもしれない。

今日も読んでくれてありがとうございます。「遊び」ってなんだろう。ということを考えるだけでも面白いなあ。もう少し時間をかけて夢想してみたら、まだまだいろいろありそうだよね。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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