特別優れた能力がないのに、どういうわけか、その人がいないとチームがうまく機能しない。そういう人がいる。見えていないだけで、特殊能力なのではないかと思っているのだ。
見えていないのは、それがモノサシで比べるのが難しいからだ。
能力というとスキルと等号で結んで考えがちだ。訓練さえすれば、誰でもある程度習得できるのがスキルだ。字がうまいとか、計算が早いとか、話すのがうまいとか、プロブラムを書くことが出来るとか。まあ、なんでもそうだ。ある程度のレベルまでは行ける。
そういう意味で、リーダーシップを捉えてみる傾向がある。だから、ビジネス書や啓蒙書にいろんなことが書いてあるわけだ。いくつも読んだけれど、みんな同じようなことを言っているし、ぜんぜん違うことも言っている。どれが本当かわからない。いや、そもそも正解なんてあるわけない。
冒頭の、なんとなく人が集まってきて組織してしまう凡人。人たらしと言ってしまえばそうなのだけれど、なんでそんなことが起きるのか。謎である。
スキル、能力で測ろうとすると謎のママになる。
だから、三国志に登場する劉備玄徳が面白いのだけれど、解釈しようとすると謎になるわけだ。
実は、比較的女性の方が劉備のような現象を発生しがちである。ということに、最近になって気がついた。あくまでも何となく感じるだけだ。根拠もなければ、性差を意識したわけでもない。
もうちょっと解像度を上げていくと、どうやらヒエラルキーが意識にない人たちのように見える。どっちが強い弱いとか、上だとか下だとか、そういった意識自体が存在していない。存在していて無視しているのではない。そもそも認識していないのではあるまいか。
そうなると、もう男女の区別はない。ただ、女性の方が多めだなと感じるだけだ。
肩書があったりするからいけないのだろうか。
だけど、肩書なんか関係なくても初対面のときに、半ば無意識にマウントポジションを取りに行こうとする人もいる。自然の闘争本能の為せるワザなのか、けっこう多い。ぼくもそういう感じだった。些細なことなのだ。都会から田舎へやってくると、田舎もんに教えてやるというスタンス。何かの会に所属していると、どちらが長くいるか。あちらの家はまだ、新参だとか。小さなところで、小さなマウントの取り合いを始める。
劉備のような人は、それが無い。いや劉備に会ったことはないのだけれど、そういう想像だ。
無いから、諸葛孔明のような若者にも「スゲースゲー」と無邪気にいえるし、張飛のような乱暴ものにも「やるなあ」と感心しまくる。新解釈三国志という映画の中の劉備は、もうちょっとちゃんとしてくださいよと叱られるようなキャラクターだったのだけれど、あながち的外れでもないのかもしれない。
そんなだから、自分以外の人間に対してべき論を説かない。自分はこう有りたいとか、べきだとは言うだろうけれど、人には言わない。リスペクトしちゃっているから、こういう考え方はどうだろうという提案になる。
こういう人は好かれる。大事にされる。自分のことをリスペクトして褒めて、驚いて、無邪気に振る舞うような人は少ない。この人が自分を高い位置に置いてくれる。と思うと、この人がいないといけないということになってしまうのかもしれない。
上下関係や組織というヒエラルキーは、組織の運営として有効な仕組みだろう。一方で、それを良い意味で無視するような人格というのも有効なのだ。両者がバランス良くマッチングすると、チームとしてまとまりが良いということになるのかもしれない。
今日も読んでくれてありがとうございます。特殊能力と書いたが、人格だ。人格もまた磨くことが出来る。それは、人に会って、本を読んで、旅をして、そうやって磨かれていくものなのだろう。