セリフと絵がマッチしないことがある。あるよね。文字通りの言葉だけを信じていると、とんでもないことになるかもしれない。傍から見ているとそういう勘違いを生むような場面でも、二人の間では全く違う解釈がなされている。なんだろうなあ。心の中の動きを察知しあっているというかな。
映画でも、本でも、漫画でも、絵でも、音楽でも。まぁ何でも良いのだけれど、言葉を信じちゃいけない。絵とか音とか、言語以外の部分に全てを封じ込めているようなことがあるんだよ。
書けよ。書いてくれよ。分かりづらいじゃない。
なんだよなあ。そう言われちゃうんだよ。
なんだけど、言葉だけで良いのなら言葉だけの物語で良いのだ。せっかく絵や音があるのだから、表現の半分以上はそちらに任せたいわけだ。
言葉だけっていうのも語弊があるかな。箇条書きでいいじゃん。わかるかわからないか、だけで言ったら十分な情報量なのだから。
極端だと思うかもしれないけれど、究極的にはそういうことなんだ。
小説や文章というのは、箇条書きにしないからこそ「余白」があって、その分だけ受け手によっていろいろな解釈が生まれるという「おもしろさ」があるんじゃないか。というのはぼくの解釈ね。
youtubeを見ていると、フルテロップの動画がある。あれは、まだ良いよ。話し言葉の補完だからさ。余白がたっぷり残っている。テレビのテロップの場合は、ほんとに上手に「要約」してくれているんだよ。ホントに凄く優秀な人がやってるんだろうね。きっと。
これ、凄くやさしい心遣い。仕事が終わって、ご飯も終わってのんびりしているときにまで頭を使わせるなよ。という、そんなときに「なんでも要約してくれる」というのは「脳の稼働負荷を下げる」テロップはありがたい。
まぁ、軽いバラエティ番組なんかだったら良いんじゃないかな。そうじゃないコンテンツでやってしまうから辟易するんだよ。なんでも要約しちゃうと、つまんない。余白が感じられない。どんなところに心が引っかかりを感じるかわからないのに、そこが削ぎ落とされちゃうわけだからさ。
逆に、要約されたものから何かを感じ取ろうと思うと、余白部分を自分で想像しなくちゃいけないことになって、余計に大変なんだよ。しかも、想像するのはぼく自身だから、結局無事故になる。
予想もしない出会い。
これがあるからこそ、世の中はとてもおもしろい。
役に立つと思われるコンテンツばっかりだと、事故に会いにくいんだ。○○に役に立つ21のルールとか、○ーバード大学で検証された3つのコツだとか、そういうのばっかりだと、ね。深みが無くなっちゃいそうじゃない。気づくポイントが21しかない。3つしかない。そのうち半分を知っていたら、価値が半減する。ところが、余白が多いコンテンツは、ポイントではない部分に出会いを感じることがある。これが良いんだよ。
組み合わせみたいなもんでさ。誰が、どの部分に響くのか。多分無限に組み合わせがあるんじゃないかな。最近の講演会では、どこを拾ってくれても良いんじゃないってくらいのゆるいスタンスでやってる。だから、後から感想を聞かせてもらうと、ぼくのほうがびっくりする。そこが響くんだなあってね。そういう解釈になるんだなぁって。
今日も読んでくれてありがとうございます。ついつい、わかりやすくしようとしてしまうのは営業職が長かったからだろうか。プレゼンテーションはわかりやすいに越したことはない。だけど、物語はそうじゃないよね。雑談というのは、物語だもん。いいんだよ。オチなんかなくて。