エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 風姿花伝と題目と。 2022年3月20日

風姿花伝は能を大成した世阿弥の書物だ。ふと忘れた頃に読み返したりしている。現代語訳だけれどね。内容ももちろん良いのだけれど、タイトルもまたおしゃれだよね。

風の姿は花が伝える。風は目に見えない。けれども、花が風になびいている姿を見て、私達は風がどの様に吹いているのかを知る。そのような意味だ。

ここから連想すると、逆もまた言えるのかもしれないな。花がどこにあるのか。例えば草むらの中で埋もれるようにしてひっそりと咲いている花があるとして。その香りを風が運んでくる。花がどこにあるのか、簡単には見つけられないけれども、たしかに花の存在を感じる。香りによってね。

人間が直接知覚できないものが世の中にはたくさんある。言語化が難しい風情の如きものもたくさんある。それを、ふんわりと雰囲気で伝えてくれるのが花の姿だったり、風が運んでくる香りだったり、それから音だったりするのだろう。

風姿花伝を読む前に、タイトルから想像したこと。

世阿弥の真意は、もしかしたらここに集約されているのかもしれない。なんて、勝手に妄想してみたりもする。

仮にそうだとすると。

風姿花伝で語られている、演出の技法や心構えなどは、「自らが花となって風を伝えるためのもの」ということになるのかな。どうだろう。

風姿花伝の中でも「花」という表現が多く用いられている。己を花にたとえて、花を咲かせるためにはと説く。咲く前の花、花盛りの頃、散った後の枯木。それぞれに、味わいがあって良い。その味わいを引き出して、演目で語られる雰囲気を表現する。つまり、風を現していくと捉えるのか。

タイトル。題目というのはとても重要なんだろうなあ。ちゃんと、通奏低音として本の中を流れ続けている。前述したようなことを先に感じて、それから読み始める。そうすると、このポイントに注目して読むのが自然なことのように感じる。

ここで思い出すのは「もののけ姫」だ。ジブリ映画の中でも好きな映画だなあ。実は宮崎駿監督がつけたタイトルは「アシタカ説記」だったそうだ。興行的に受けの良いことを狙って「もののけ姫」に変わったらしく、宮崎駿監督はあまり納得していなかったという話を聞いたことがある。

タイトルが「もののけ姫」であるから、ぼくらは「サン」を中心に据えて見てしまう。これは自然界の側から見た世界観なのだと。実際のところは「アシタカ」が伝説になっていくストーリー。縄文文化の王子であるアシタカ、エボシ御前を代表とする弥生文化、そしてモロや乙事主の自然。この3つのバランスを、アシタカの生き様を通して見ていく物語なのである。ということに気がついたのは、公開されてから10年以上が経ってからのことだ。

それだけ、タイトルの持つ影響力は強いんだろうね。

今日も読んでくれてありがとうございます。エッセイでも、たべものラジオでも、あまり深く考えずにタイトルをつけている話が多いよなあ。絶対誤読される。あまり考えずに、思いつくままに書いているわけだし、じっくり考察するほどの時間をかけられるわけでもないからね。ふわっとしたままでも、それはそれで味わいと言い切ってしまおうか。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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