エッセイみたいなもの

今日のエッセイ エッセイを書き続けている理由を考えてみた

ずっとエッセイを書いている。正直面倒くさいと思うこともある。最近は筆が早くなってきたけれど、それでも一日のうち何%かは時間を割いているわけだ。いつやめたって良い。別に義務感でやっているわけじゃないしね。業務でもない。ただただ、書きたいように書いているだけだ。

そもそも読み手を想定していない。というとちょっと違うか。一般的なブログや記事のように、自分以外のたくさんの人に読んでもらおうという意志が無いんだよね。誰一人読んでなくても構わない。そのくらいの感覚だ。後で自分で読んだ時に面白いと思えることだけを書いている。ということだから、想定している読者は、ぼくだね。

未来の自分に向かって手紙を書くってあるじゃない。あんな感じで書いているのかもしれない。でもちょっと違うんだよなあ。だいたい、ほとんど読み返さないしね。一年近く経ってから、去年の今頃は何を書いていたんだろうと思って覗くくらいのものだ。きっとこの文章もそうなるはず。

そもそも、未来の自分に読んでもらおうと思うこと事態が小っ恥ずかしいよ。偶然読んだ時におもしろいと感じられるモノにはしておこうかなと思っているくらい。

じゃあ、なんで毎日エッセイを書いているんだろう。

あ、ホントになんでだろうって気になってきた。

無理やり理屈を付けてみるか。最初に思い当たるのは、文章を書くということそのものが有益だってことだろうね。意外と自分で考えていることは、自分で把握できていないことも多い。書き出してみると、違和感があることもあるし、文脈を辿っていったら想像もしなかった場所へたどり着くこともある。こんなことを書こうと思っていたわけじゃないのに、ってね。でも完結したから良いか。となる。

こういうのを内省って言うのかな。その辺の定義が曖昧だからなんとも言えないけど。少なくとも、自分の中にある思考が整理される感覚はあるよね。

と、ここまで書いていて気が付いた。何かを残したいんだ。誰かになにかの影響を与えている。それって、深い理由はないけれど嬉しいんだよね。本能的なものかも。それによって、ぼくがこの世にいることの価値を証明しているような気になったりもする。錯覚かもしれないけれど、それはそれで良いや。

という話からすると、去年の夏くらいからその意識が強くなったかもね。ぼくの周りで大切な人が亡くなったんだ。祖母と友人。ふたりともしっかりと何かをぼくの中に置いていってくれた感覚があるんだ。そして、祖母とはとても長い時間を共有してきたから、それがより強い感覚がある。

友人ともとても深い繋がりがあるのだけれど、彼は彼の歌を残していった。ぼくは彼と一緒に過ごした時間があるけれど、そうじゃない人も、もっと短い人も彼の歌を通して繋がりがあるように思えるんだ。彼の思想がだけじゃなくて、彼がそこに存在したということが、影響を与えてくれる。

ぼくには、3人の娘がいる。下の二人は、現在の妻との間の娘だ。まだまだ幼い。ぼくとは40歳の年齢差がある。前妻との間の娘は、もう高校生なのだけれど一緒に暮らしていない。もう離れてからずいぶんと時間が経ってしまった。

こういう環境にいるからだろうか。彼女たちがいつかこのエッセイなり、たべものRadioなりを見聞きして、父がこんなことをしていたんだという足跡くらいは知ってもらえるかもしれないと思ってね。と言っても、このエッセイのことは知らせていないんだけれど。もし、本人たちが知りたいと思った時に、ぼくの言葉でぼくがここにいることを残しておこうかなって。そんな気持ちになった。

今日も読んでくれてありがとうございます。と書いているから、誰かの目線を気にして入るんだよな。めちゃくちゃ矛盾している。ということもまた面白おかしく眺めてみるくらいの生き方が、今、なんだな。

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武藤太郎

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