エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 贅沢なことなんだろうな。 2022年4月21日

しばらく前に、高校時代からの友人と一緒にお酒を飲んだ。お互いに仕事もあるし、住んでいる場所も離れている。家庭だってある。だから、若い頃のように頻繁に会って、バカ話をすることも無くなった。

ダラダラとお互いの仕事のことだったり、家庭のことだったり、時には音楽のことだったりを話す。別にどうということはない。生産性なんて一ミリもない。なんだけど、すっごく贅沢な時間なんだよね。ホントに贅沢。

ぼくらは、同じ時間に同じ高校生だった。それぞれに違う高校に通って、それでも部活や勉強をして恋愛だってした。一緒にバンド活動もした。という記憶がある事自体、実はとても贅沢なことなんだろうと思うんだ。これが、今の「酒を酌み交わす時間」すらも贅沢なものにしているようなきがする。

今から高校生になろうと思えばなれないことはない。高校だって大学だって年齢制限は無いのだから。けど、ぼくらの知っている高校生活はもう二度と無い。16歳の時にはじめて彼女が出来たドキドキ感は、もう今となっては味わうことがない。結婚しているからということももちろんあるけれど、単純に感覚として同じことはないよね。

人生経験が未熟であるからこその、ワクワク感とかさ。もう40歳も過ぎていると、まったく同じ事象が起こったとしても、同じ感覚で捉えることは出来ない。体力も違うし、周囲の環境も違う。ケータイだって無い。車にも乗れない。お金もない。そもそもすべてが過去の一点においてのみ存在したものだ。だから、今に蘇るなんてことはない。

だからこそ、その時間を共有したことのある友人というのが貴重なのだろうね。そして、その友人と昔話をすることが、実はとても贅沢なことなのだ。

良い悪いじゃなくて、めちゃくちゃ極端なことを言うのだけれどね。高校時代に恋愛をしたことがない人だっているわけだ。そういう人は、元恋人との高校時代の記憶ってのはない。自分にもなければ、それを共有する相手もいないってことになる。このことが劣っているとか優れているという話じゃなくて、そういう事実もある。

ぼくにとって、甲子園を目指して練習した経験が無いように、大学受験で猛勉強した経験が無いように。ただただ、無いものは無い。ただそれだけのことだ。恋愛を例えに出してしまったから余計な気遣いをしなくちゃいけなくなっちゃったな。要は、その時代の経験は二度と同じ感覚では手に入らない。そして、人間には経験できることの限界があるから、人ぞれぞれに違う事があるってことなんだけどさ。

どんな記憶でも良い。二度と手に入らない「感覚」を経験していて、そしてそれを共有することができる人が存在するということ。このことがとても贅沢だなあと思うわけだ。

ついつい、当たり前のように思ってしまいがちなんだけどね。改めて見てみると、ぼくの人生にとってとても贅沢だ。それは、ぼくだけじゃなくてたくさんの人が持っている感覚なんじゃ無いだろうかとも思うんだ。

贅沢なこの時間は、とても幸せだと思わせてくれる。幸福っていうのは、案外こんな事なのかもね。だから、飲み会や旅行や食事を口実にして会うんだろう。

今日も読んでくれてありがとうございます。お年寄りが昔話ばっかりするのは、幸福を手元に手繰り寄せる行為なのかもしれない。って言うとなんだか味気ないな。表現がうまくいかない。結果の因果はさておき、贅沢な時間ではあるのだからね。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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