エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 「見せ方」のはなし。 2022年4月23日

文化財保存活用について、市の協議会に召喚の依頼が来た。ぼくで良いのかどうかわからないけれど、やれるだけやってみようとは思う。

電話で打診が来た後に、改めて市の担当責任者が来てくれたのだ。ホントに丁寧だよね。人生の先輩である友人からの紹介で、その人がぜひやってくれっていうんだから。もう、それだけで良いのだ。というわけにはいかないんだろうなあ。タイヘンよね。

協議会っていうのは、いろんなジャンルの人が集まって対話をすることで今後の方向性を浮かび上がらせようという試みだ。デッサンのように、雑多な線をたくさん書きながら描くべき実線がどこにあるのかを探り出す。いきなり主線をバシッと描くのは、それこそハードルが高いタイヘンなことだからね。

人選を見せてもらったけれど、これが興味深いんだ。他の政策でも、振興計画策定委員会に参加したことがあるんだ。で、大体はその分野の専門だったり、業界内の人だったりで構成されている。そこへ、その周辺に関連する人が集められる。観光の場合だったら、ぼくは前者。そして緑茶の場合は後者になるね。

今回は、専門家が少ない。もちろんちゃんと能力のある方が主軸にはいらっしゃるんだけど、雑多なジャンルの人が多いんだよね。ぼくも含めてだけど。だから、もう肩書がめちゃくちゃ。無理やりくっつけたような名目になっていたりする。ぼくの名目も、観光協会の代表者じゃないしね。別の人が代表として参加するんだもの。

ぼくの分野?郷土研究って書いてあったよ。やったことないけど。たべものRadioが役に立てば良いのだけどね。

ひとつ、文化財保存活用計画で役に立つことといえば、「見せ方」に強いこだわりがあるところかな。観光振興でもそうだし、ビジネスでもそうなんだけど、そこはちゃんと考えたいんだよね。

所詮は、見せ方。外装みたいなもんだし、包み紙みたいなもんだ。と捉えられがちなんだ。中身こそが一番大切ってね。中身が無いのに外見ばっかり気にしていてもしょうがない。そりゃそうなんだ。中身が無いのは問題外として、見せ方もちゃんと考えないと楽しめないんだ。

ぼくが言う「見せ方」は二つある。ひとつは「外装」。もうひとつは「解釈」だ。

外装は言うまでもないけれど、とても大切。人間で言えば、髪型を整えるとか、身なりを整えるということにもなるし、表情や言葉遣いや立ち居振る舞いにも現れる。現れることは本質を現すものだとして、きちんとすることは大前提なのだ。だいたい、気が付いてもらえなかったら、中身を見てみたいと興味を持ってもらえなかったら、中身にまでたどり着かないのだ。

解釈。これが盲点らしいよ。モノゴトはどの角度から切り取って眺めるかによって、まったく違った景色を現すことがあるんだよね。このあたりのことは、美術館の学芸員さんたちがよくやることだ。「ゴッホ展」は単純にゴッホの作品を集めた展覧会。それはそれで良い。それ以外に、例えば「ヨーロッパ中世の建築」という展覧会だとすると、このテーマに沿ったいろんな美術品が並ぶ。この中にゴッホの作品は入らないかもしれないけれど、もしかしたらフェルメールくらいは入っちゃうかもしれない。とか書いてるけれど、美術全然詳しくない。かなりテキトーに書いてるんだけどさ。

今回はこの角度から見えた世界を表現しますよってことをやる。そこに特化してみる。そうすると、違った見方ができる。例えば、天守閣を観光見物に行くとして、それを歴史ストーリーの一部として見るのか、それとも建造物としてみるのか、景色としてみるのかってことだ。それぞれの見方によって、次に訪れたい場所も変わるだろう。

歴史つながりで、あっちのお城へ行こう。なのか。建造物で見るとしたら、同自体の商家や寺院はどんな構造なのかを見に行こうってこともある。そういう見方の「見せ方」ね。

今日も読んでくれてありがとうございます。このジャンルだったら、かなり得意かもしれない。いろんな角度から捉えてみて、バラバラになったピースを繋ぎ合わせてストーリーを作り出すこと。これを面白いと感じる人種なのだよ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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