エッセイみたいなもの

今日のエッセイ やりがいってなんだろうか。 2022年4月28日

「やりがい」ってなんだろうね。「働きがい」「生きがい」「~したかいがあった」なんて使い方は結構一般的にある。お出しした料理をぺろりときれいに平らげて「美味しかった」って言ってもらえると「頑張って料理したかいがあったなあ」と嬉しい気持ちになる。今ポッドキャストで「たべものラジオ」という番組を配信しているけれど、再生回数が増えたりコメントをもらったりするとやっぱり嬉しい。単純に数字というだけじゃなくて「誰かの役に立っている」気がするのだ。

こんなことを言うのも、この数十年間で「やりがい」というものが重視されてきている感覚があるからだ。年収や福利厚生で仕事を選ぶ人もいるだろうし、効率を考えたらその方が良いのかもしれない。やりがいというのも、その上に成り立っていたはずだ。けれども、多少年収が低くなっても良いから、やりがいのある仕事が良い、という人が増えてきているらしくてさ。とても興味深い。

もしかしたら、「やりがい」は「誰かの役に立っている」という感覚が中心にあるのかな。どうなんだろう。じゃあ、これを前提に置いてみて反証をしてみるか。誰の役にも立っていないけれど、やりがいを感じるもの。そういうのを探してみる。

と、その前に。語源からいってみよう。せっかく手元に「語源辞典」があるからね。最近購入したの。めっちゃ面白いんだけど、こんなのが存在することを最近知ったんだよ。

「やりがい」では掲載されていないから、「甲斐」で調べてみる。効果。四段動詞「かふ(代・替)」の連用形「かひ」が名詞化した語。代わりとなることの出来る物事の意から、同じ効果のある物事、効果のある物事の意へ転じたものであろう。つまり、「行動に対する成果のある物事」ということになるのかな。余計に分からなくなったかもしれない。

世の中の誰の役にも立たないことなんてあるのかな。仮に自分以外に限定してみようか。誰も食べない料理。自分しか食べないとなると、手を抜きがちかもしれない。そういう人の話はよく聞く。もし、自分も食べないし、他の誰も食べない料理だとしたら。これはもう虚しい。

モノづくりはどうだろう。誰も使うことが出来ない机。自分も使わないし、他の誰もが使わない。使うことが出来ないような構造なんてものがあるのかどうか知らないけれど、あったとしたらどうだろう。これも、虚しくなるのだろうか。

大仰に反証してみようと思ったけれど、これは意外と面倒な作業だ。相当な数の反証になりそうな例を考えなくちゃいけないし、バリエーションが無数にある。めっちゃ難しいんじゃないか。

誰の役にも立たない仕事かあ。わからないけれど、無駄だなあって思うことはあるよね。例えば。そうだな、申請書類を書く必要があって、それがめちゃくちゃ難解なものだとする。代理で書類を作成する人がいて、それを審査するのも代理の人がいる。だけど、申請者も書類を用意しなくちゃいけないし、受け取る人もちゃんと審査をしなくちゃいけないとする。

書類の難解さを解消したら、あいだの二人は不要になるよね。やらなくても良い仕事だし、存在意義がない。世の中には、実はそういう仕事がいっぱいあるのかもしれない。仕事をさせる、仕事をするというための仕事。あんまり生み出していない。これはやりがいがなさそうに感じるんだけどな。どう思っているのだろうか。デヴィッド・クレーバーの著書「ブルシットジョブ」はこういう類いのしごとについて書かれた本だ。

ブルシットジョブについている人はどんな感覚なんだろう。誰かの役に立っているという感覚を幻出させるか、これ以外のやりがいを見出しているのかもしれない。実際に、そんな仕事に付いたこともないし、そもそもどんな仕事が「ブルシットジョブ」なのか、想像ができない。

まだ、読みかけだからね。このあたりも読み進めたら理解が深まるのかな。

今日も読んでくれてありがとうございます。やりがいのない仕事。ブルシットジョブはクソどうでもいい仕事を通して、社会の無駄を読み解く本だという認識をして読み始めた。たぶんそれで間違いないのだろうけれど、もしかしたら「やりがい」とは何かを理解する手助けになるかもしれない。いずれ、感想を書く日が来ると思う。

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武藤太郎

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