エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 名前のない料理が普通。だいたい美味しくなるから。 2022年5月16日

調味料って、ほんとにスゴイよね。そんなことは知っている。だろうね。そうだろうけれど、改めて調味料ってスゴイと思うんだよね。醤油とか味噌とか酒とか味醂とか。みんな発酵調味料だな。

料理が苦手な人が困るのが、冷蔵庫にあるもので適当に料理を作るということらしい。ぼくには不思議な現象に見えるのだけれど、それは料理を職能としているからだろう。どう組み合わせたらどうなるかなんて、想像するのもタイヘンだ。ってことなんだろう。

学校教育の中で料理を教えられるのは家庭科の授業なのかな。それから、世にたくさんある料理教室。それらのカリキュラムは「○○を作ろう」なのだ。作ろうとしている料理が予め決まっている。正解があって、それを再現するための手順を教えてくれるというスタイル。言ってみればプラモデルみたいなものなんだよね。

これに慣れすぎてしまうと、○○を作るために必要な食材をその都度用意するということが当たり前になってしまう。

今日の晩ごはんは肉じゃがだとしよう。そのために用意するのは、豚肉とジャガイモと人参と、それからそれから。と考え始める。昨日の鶏肉が余っていても、それでも豚肉を買わなくちゃいけないと思ってしまう。そぼろ肉があっても、かぼちゃがあっても、大根があっても、それは冷蔵庫の中でしばらく出番を待ち続けるのだ。そのうち忘れられて、傷んだ食材はゴミ箱へということすらあるらしいのよ。

逆なんだよね。調理の出発点は真逆。本質は、「目の前にある食材をどうやって美味しく食べるか」なのだ。料理の歴史を紐解くと、料理はそうやって始まったのだ。

そこで登場するのが、先程の調味料の話だ。あんまり難しいことは考えなくても良い。だいたい、醤油と酒と味醂を同じ割合くらいで混ぜれば、なんとなく美味しくなる。特に和食の基本は「甘味」と「塩味」のバランスなんだ。そのバランスは、醤油、酒、味醂を同じ量入れることで取れてしまう。

いま、かなり乱暴なことを言っているよ。他にもいろいろあるよ。だけど、分からなくなったらとりあえずこれで良いの。あとは、濃さを考えるだけ。薄ければ全部増やす。ただそれだけ。濃くなったら薄めるのは面倒だから、少しずつ加減すれば良い。

醤油味に飽きたら味噌に変えるだけ。それでも飽きたら、生姜をプラスするとか、にんにくを入れるとか。まあ、何でもいいの。ザクっとね。

調理技法だって、煮る、炒める、炙る、蒸す、揚げるといったくらいのものだ。他にもあるけれど、家庭での調理には持ち込まなくたって良い。わかりやす方法でやればいいじゃん。そもそも、家庭料理の一品一品に名前がある方がオカシイのよ。ぼくらみたいに料理屋をやっていても、名前のない料理が無限にあるもの。ただ、お客様に紹介するときに名前があったほうがカッコイイからいちいと名付けているだけなんだよ。もしくは、定番になったものは説明を省略したいからって理由で名前がつくのだ。

日本ではあまり馴染みがないけれど、本格的なフランス料理のお店でメニューを眺めてみたら良い。ほとんどの料理に名前なんて無いから。「名前」という観点からいえば、あれは名前じゃない。ただ、食材とそれをどう調理したかを書いているだけだ。蒸した子羊の肉をグリルしたもの、ハーブと野菜のソースを添えて。とか、もう名前じゃないでしょう。

だからね。冷蔵庫にあった鶏肉を昨日の余り物の野菜と一緒に味噌味でさっと煮たもの。という料理で全然構わないわけだ。料理名なんか気にしない。とりあえず、美味しい調味料があればなんとなく美味しくまとまるから。大丈夫。

今日も読んでくれてありがとうございます。あるもの食材の料理教室って無いのかな。みんなで作って、出来上がったら料理名をみんなで考えるって。面白そうじゃん。やろうかな。どうだろう。

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武藤太郎

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