エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 身も蓋もない話から繋がる、つながりの話。 2022年5月28日

最近、サンデル教授の「実力も運のうち」という書籍に関する動画を見た。読んでない。読みたいのだけれどね。積読が多すぎて、なかなかたどり着かないもんだから、解説動画を見たのよ。かなり大雑把だけどね。それを見て読んだ気になっちゃいけないんだけどさ。長くて難解な書物は、どれだけ優秀な人が解説をしてくれたとしても、解説者のバイアスが必ず入るから。そのバイアスを含めた上で楽しむというくらいのものだ。

かなり要約された動画を更に要約すると、タイトルのとおりになる。なんとも身も蓋もない話だ。努力したって意味ないという話じゃないし、努力が必要な場面は必ずあるということは前提だ。それでも、やはり実力をつけるためには運の要素があるよねってこと。

これには続きがあってね。実力ってなんだろう、能力ってなんだろうなって話になるんだ。現代においては、知識や賢さが能力と呼ばれる傾向にある。いわゆる能力主義社会だ。賢いやつってのは、もちろん本人の努力なしにはなることが出来ない。一方で、遺伝子だったりとか、生まれた環境や時代だったりに影響を受けるものでもあるよね。

ちょっと待て、個人の能力って知識や賢さだけなのかい。そういうことを提唱しているんだ。運動能力が高いとか、音感が良いとか、絵がうまいとか、手先が器用だとか、料理のセンスがいいとか、釣りが上手いとか。なんか、他にもあるでしょうよ。

現代の能力主義って、能力の尺度が一つしか無いくらいに集約されすぎてるんじゃないか、って主張なんだよね。

うーむ。たしかに。尺度を一つだけに絞り込むとろくなことにならないのは、周知の事実。ある一定の条件下だけのものなら良いんだ。ゲームやっている時。サッカーしている時。歌を歌っている時。それぞれの状況では、それが尺度になる。社会全体のモノサシをひとつにするとろくなことにならないでしょ。ほら、資本主義の行き詰まりって、そこに起因しているって話だからさ。

単一の尺度で評価するってことは、あいつは良いやつかもしれないけれど勉強ができない。それは、あいつが努力をしないからだ。だから駄目だ。ということになりかねない。複数だったら、あいつは勉強が出来ないけれど、良いやつだしサッカーをやらせたら誰よりも上手いってことになるよね。プラスマイナスゼロだ。

しばらく前からウェルビーイングが提唱されている。世界的な潮流になりつつある。その視点で見れば、当然後者の評価軸のほうが良いはずなんだ。それにね。人間ていうのは、その時々で変わるもんだよ。良いやつにもズルいやつにもなりうるんだ。常に一側面だけを見せている月みたいな人はいないからね。評価が一定であることのほうが不自然だろうと思う。

という話の延長を考えてみると。こりゃしばらくはどうしようもないんじゃないかなって気がしてくる。だって、そう簡単に価値観やモノサシが入れ替わるってことは無いだろうから。それは、今までの歴史が証明している。時間がかかるってことね。だとしたら、どうするのが良いか。ということは、サンデル教授は明確に言及していないらしい。

おおざっぱにと解釈すると「別のモノサシで繋がるコミュニティ」があると良いよねって。そのコミュニティ内では、貧富の差が消し飛ぶような感覚で友だちになれる。そうすると、金持ちがその富を循環させようという動機になるじゃない。○○が好き、っていうことは共通概念。

なんだか、釣りバカ日誌のハマちゃんとスーさんの関係みたいだよね。

ああそうか。趣味ってそういうことのためにあるんだ。経済とは別の繋がりを担保するために文化が存在するんだ。宗教だって、そういう側面をもっていたかもしれない。という気になってきたよ。美術でもスポーツでもアイドルでも何でもいい。ということか。

今日も読んでくれてありがとうございます。そういえば、たべものRadioのリスナーさんたちが自然に繋がりを持ち始めているんだよね。お互いの素性なんかどうでも良くて、食と食文化史が好きだっていう一点でフラットに繋がっている。めっちゃ素敵なことじゃん。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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