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今日のエッセイ 温故知新。未来はランダム、予測不可能な気がしてしまう。 2022年6月17日

温故知新という言葉はあまりにも有名だ。だから今更この四字熟語に関して語ることなんか何も無いようなきがする。それに、座右の銘と言うほどのことはないのだけれど、好きな言葉はと問われたらこの四字熟語をあげていたことも多いかもしれない。

改めて温故知新という言葉の意味を見直してみようかと思う。そのきっかけとなったのは、スケールの拡大だ。メチャクチャ詳しいというわけではないけれど、なんとなく歴史物語が好きだったんだよね。それが温故知新という言葉を好む理由の一つでもあるんだけど。ただ、ぼくが見聞きしてきた歴史というのは、あくまでも人類史なんだ。それも、比較的新しい。ある程度文字や痕跡が見やすくて、教科書に記載されていたり、ドラマ化されたり、何かしらの記事になっていたりするようなものだ。

近頃読んだ本は、スケールが違うのだ。タイトルからして10万年史と書かれている。中身を読んでみると、2億年前から話が始まるのだ。徐々にスケールダウンしていって、20万年前から現代にかけての気候のサイクルを解説している。そう、地球規模の気候の学の話なのだ。

この本を読んでみて衝撃を受けるのは、未来はほとんど予測不可能だということだ。なにを当たり前なことをと思うかもしれないけれど、短い期間でなら未来予測は可能だ。ピタリでなくてもざっくりとならわかる。天気予報なんか見なくても、なんだか雨が振りそうだなということは予測できる。それは、田舎で空を見て暮らしていればほとんどの人にとっては当たり前だ。

現代ではあまり通用していないけれど、100年ほどは将来設計が比較的容易だった。思いっきり簡略化するけれど、良い大学に入って良い会社に就職すれば安泰、そういうことも直近の過去を踏襲すれば良いという時代があった。この傾向は、中世であっても近世であっても、比較的社会が安定している状態にはよく見られる。

古気候学の世界では、もっと大きなスケールになる。直近1万年は最近という扱いだ。このスケールでの気候変動を眺めてみると、気温変化のグラフは一定のパターンが有るようにも見える。だいたい10万年周期で氷期と間氷期が繰り返されるのがひとつめ。サイクルが繰り返すパターンだね。もう一つは、気温低下の方向に向かい始めたら大きな流れは一定期間は下がり続ける。1次関数的なパターン。

この大きなスケールを見た上で、それぞれの時代をクローズアップしてみると、ぼくの感覚は途端におかしくなってしまう。理屈では見たものが何であるかはわかる。けれども、直感とは相容れないような現象が多く見られるのだ。

およそ4万年前の平均気温は現代よりも遥かに低い。かるくみても10度以上の気温差がある。平均気温が10℃下がるということは、かなり違うのだ。一年間の毎日の気温が軒並み10℃下がる。一日でも下がり幅が少ない日があれば、他の日がもっと下がらないと平均値が下がらないのだから。

ところがだ。気温変化のグラフは激しく上下しているんだよ。上下に触れながら、長い期間で見るとだいたい氷期だということ。年によっては、現代とほぼ同じ程度の平均気温を記録している時期もあるのだ。それが1年だけのことなのか50年のことなのか、ぼくが見た資料はスケールが大きすぎて読み取れない。仮に50年だとすると、地表の氷はかなり溶けただろうね。海面も上昇したかもしれない。と思えば、次にはまた下がる。それももっと下がったりもする。

興味深いのは、このギザギザの振れ幅やタイミングがランダムだということ。1000年の平均気温をとれば、グラフはなだらかだろうけれど、人類が感知できる時間軸では乱高下しているようにしか感じられないのだ。もしかしたら、乱高下ですら無いかもしれない。寒冷化もしくは温暖化としか感知できないかもしれない。

温故知新という言葉は、過去を知りそれを元に考えを深めて、新しき知識や見識を開くことを指している。ともすると、直近の未来予測に役に立つようなイメージで用いられる文章やスピーチもある。だけど、そうじゃないんだと思ったんだ。古いこと、つまり現代に繋がる文脈を知ることで、今ぼくがいるここが何なのかをぼんやりとでも捉えられるようになろうと足掻くこと。そういうことなんだと思う。そして、不規則で予測不可能な未来に対して、臨機応変に対応できるように備えることに他ならない。

今日も読んでくれてありがとうございます。インド独立を牽引したマハトマ・ガンディーは「歴史を学んでわかることは、過去に起こらなかったことがこの先も起こらないとは限らないということだ」と言ったらしいよ。なんだか、今生きているこの世界がふわーっと違うものに見えてきてしまうよ。

Posted in エッセイみたいなもの

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