エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 制約を課すと自由になる。一見矛盾した流れ 2022年6月18日

個人の好みで、ウマイもマズイもある程度は決められてしまう。というと、ちょっと極端かな。誰が食べても美味しいものっていう料理があると信じたいとは思うんだけどね。その一方で、文化や歴史や家庭などの影響もあって、好みが千差万別なのだから、美味しいと感じる感性はバラバラなのかもしれないとも思うんだ。

文化や歴史や家庭や友人からの影響。これは、個々人の経験になる。経験があるからいろんな思考がめぐらされるようになるし、経験によって個人のアイデンティティというものが形成されていくわけだ。ぼくらはいろんな影響を受けている。その始まりは生まれた瞬間から始まる。

親に出会い、兄弟や祖父母と出会い、友達と出会い、人と接することから始まる。それから、絵本や音楽やテレビやラジオ、書籍にネットメディアなどなど、様々なメディアにも触れる。さらに、家事の手伝いや遊び、スポーツ、アウトドアなどあらゆる体験に接触する。そのうちに、自分の中にいくつもの人格が形成されていく。

自分の中に複数の人がいる。というと、多重人格みたいだけれども、実際そういう感覚がある。あの人だったらこんなふうに考える。この人の場合はこうだ。こういうことを思考するのは、とても自然な流れだろう。意識しているかどうかはさておき、ぼくの知る限りはみんながやっていることだ。

思春期の頃、ぼくが不安定だったのは、ぼくの中の多重人格が議論しあっていてしょっちゅう喧嘩していたからなんだろうな。一本の筋にまとまらないのよ。いつも混沌としている。円卓が聞いて呆れるほどだ。時には誰かの声が強くなると、偏って突っ走ることもあるのだけれど、それが青年期かな。思い込みが強い傾向になる。

それが、ある程度してくるとそれぞれの人格が妥協と言うか、落とし所を見つけ始める。うまい具合に調和を作り出すようになるんだよね。そうして、その状態を大人になったと表現されるようになるんだろうな。

学びも含めて経験とくくってしまえば、なにもかもが経験から成り立っている。それがぼくという人格だ。ところで、この状態は自由なのだろうか。

自由になるために必要なスキルとして、あらゆる経験を重ねていく。経験から自分なりの思考を繰り返す。ファクトだけでなく、他の誰かの思考方法を吸収しながら自由へと近づいていく。

ところが、この経験が足かせになることがある。思い込みだ。一般的に、ぼくらはパターンを見出そうとする性質があるらしい。二度あることは三度ある。これは、周期パターンによる予測だ。一週間暑い日が続いたから明日もまた暑いだろう。多少の変動は許容しても夏場に急にコートを着るような寒さにはならない。というのは、線形のパターン予測だ。

この性質と経験が組み合わさると、思考パターンが一定の結論に収束しがちになる。似たようなところにたどり着いてしまうんだよね。それは、自由であるようだけれど、新しさを無意識的に回避させられているようにも見えるんだ。

そこで、あえて自分に不自由なルールを設定する。サッカーは、手を使わないという一見理不尽にも見える制約を課している。その結果、自由を求めて新たな工夫が始まるのだ。サッカーが存在しない世界で、あれほどまでに自由にボールを操る人類が登場しただろうか。制約があるからこそ、技術革新が起こって、それが文化になるまで拡散して定着したというふうにも見えるんだ。

日本料理は食材リストから肉を削除してしまった。全く消えることはなかったけれど、概ね使わないことになって、その期間がとても長い。ホモ・サピエンスという存在を考えれば、肉を食さないというのは理不尽とも言える制約のはずだ。不自由なはずなんだけれど、それが新しい発想を生み出した。豆腐も醤油も味噌も、おそらくは肉食制限の延長上に誕生した新しさ。肉を食べないから魚介を求めるのだけれど、保存の課題があり充分に行き渡らない。結果うまみが足りず、発酵食品で旨味を補強した。

こういった事例は枚挙にいとまがないほどだ。もしかしたら、制限をかけると、経験による制約から開放される、といったプログラムがインストールされているんじゃないかと疑いたくなるくらいだよ。

今日も読んでくれてありがとうございます。思考が偏ってきたなと感じたら、あえて制約を課してみると良いのかもしれないね。そこから新しい何かが生まれるかもしれない。そういえば、コロナ禍で飲食店に課せられた制約は何を生み出したのだろう。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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