エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 「いいからやれ」という修行のはなし 2021年12月28日

なんとなく、心と身体は別々に動いているような錯覚を起こしてしまう。僕自身がそういうところがあって、例えば体の不調はどうしようもないけれど、心の不調については精神力でなんとかなるんじゃないかと思っているフシがある。けれど、体に直接影響を与えることが、そのまま心の健康にも影響を与えることがあるという事実があるよね。

昨日の話にもつながるのだけれど。身体性、感覚、動作。理由や理屈はさておき、とりあえず体を動かしてみる。そういうことも大切なのだという話ね。そこから、すでにある解釈のズレを自分なりにどういうカタチに集結させていくかということにつながる。

ノウハウとしていろいろと知っていても、なかなか習熟できない。ぼくらがやっている料理人としての技術なんかはその通りだ。桂剥きにしても、刺し身にしても、反復練習をしなくちゃどうにもならない。これには異論がないと思う。
実行すると一部にエラーが発生する。そのエラーを察知して、微調整をする。微調整の加減というものが、何万通りもあってひとつずつ修正していくという作業は、体と脳の連動作業だ。

これを繰り返していくうちに、とあることに気がつく。聞いたことのある理屈と合致する瞬間に出会うのだ。なんとなく頭ではわかっていたような気になっていたのだけれど、実際に行動してみることではっきりと理解できる。そういう瞬間がある。なるほど、と。いわゆる「腑に落ちる」という瞬間だ。
文書によって理解できることもあるのだけれど、理解することと腑に落ちることとは必ずしも合致しない。だからこそ、身体動作を伴った理解がとても有用なのじゃないかと思うのだよ。これは、仏典を学習した僧侶が身体動作を伴う修行を行うことで理解を深めることにも似ているよね。

説明文が明瞭であっても、不明瞭であっても、身体動作を伴った理解が必要な事柄があるように思える。料理のような、そもそも身体動作を主体としたものは当然だけれど、他のジャンルでも同じなんじゃなかろうか。哲学でも数学でも、オフィスワーク的な仕事でも。もしかしたら、身体動作が思考に影響を与えることはとても大きいのかもしれない。それだけ脳が察知できないレベルの、いや脳は察知しているのか、意識が認知していないレベルの情報を五感で受け取っているということだろうね。

不明瞭な説明文。これには、明確な正解が示されていないことが多い。現時点での自分の解釈と、説明文が意図することの差分を埋めようとして、ぼくらは考える。考えずに怒り出すということもある。怒り出すという感情は理解できるけれど、それは「自由な解釈」を自ら放棄していることにも繋がっているのかもしれない。
自由な解釈をもって、説明文の本来の意図を受け取りに行く。その過程で、説明文の意図とは違ったものに出会っていく。そのための身体動作。

結果的に、本来の意図に出会うことが出来てもいいし、自分なりの新しい解釈に出会っても良い。どちらも面白いと感じる感性が大切なことのように思えてくるね。
身体性と解釈。このエッセイで書き出すには、ぼくの言語力にも限界がある。もっと上手に言語を扱うことが出来たら、いろいろと書き出すことが出来るかもしれない。僕自身の理解もまだまだ全然足りていないし、もしかしたら、言語で表現することにも限界があるかもしれない。だからこそ仏教では身体性を伴った修行を設定しているのか。あ、ループした。

今日も読んでくれてありがとうございます。一人前の料理人になるために、長い修行は必要か?という問いには「一人前」と「修行」の定義が必要だね。その上で、今日の話をもとに考えるといろんな解釈が生まれそうだ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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