エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 「市内観光」掛川城へ行ってきた。 2022年2月6日

2022年2月6日

3歳の娘がねだるので、掛川城へ行ってきた。ちょうど我が家から北を望むと、同じ高さに掛川城天守閣が見えるんだよ。それでね、毎日眺めているうちに「お城に行ってみたい」ってことになったんだそうだ。

なにがきっかけで興味を持つかわからないもんだね。

寒い中、みんなで厚着をして天守閣を訪れた。妻も娘も「わー」とか「きゃー」とか、とにかく楽しそうだ。入館チケットは2種類あって、「天守閣のみ」か「周遊券」が選べる。周遊券の方は、御殿や二の丸や茶室などの天守閣以外の施設の入館もセットになっているのだ。

「お城だけにする?それとも他もまわる?」

もちろん、言わんとすることはわかるので「周遊券にしようよ」って言ったんだけどさ。認識の違いが面白くてね。

ちょっと歴史やお城が好きな人だったらわかると思うけど、そういう人たちにとって「お城」って言うのは「城郭の中のもの全部」なんだよね。外堀がどうだとか、大手門だとか、橋がかかっている所から、馬小屋までも。そういうのも含めた構造を考えて建造したわけだから。

一般的に、お城って言うと天守閣のみを指すことが多いのはよく知っている。

現存しているものや復元を見ると、特にそう見えるもんね。

「日本のお城ってちっちゃいんだよなあ。ヨーロッパはもっと巨大だ。思考のスケールの差が出ちゃうよ。」と言っている人に会った事があるんだけど。天守閣だけを見るとそう見えちゃうかもね。ちゃんと縄張を見るとけっこう大きいんだよね、日本のお城。小田原城も相当規模が大きいし、江戸城なんてどこまでを場内と見ていいかわからないくらいだし、もっと前の時代の春日山城(上杉謙信の居城)なんて、山ひとつまるごとだし。

大きいからいいってこともないし、それが思考のスケールとリンクしているなんて1mmも思わないけど。

それはさておき、人によって解釈が違って面白いなって話だよ。

どっちだって良いんだけどね。

ただ、「どこからどこまで」を「それ」とするかは、意外と深い話になりそうだなって思ってさ。

「わたし」とは「わたし以外のもの」ではないものである。

世界各地の各時代の哲学では、「己とはなんなのか」を定義する記述が見られる。色んな人がいろんなことを言っているんだけど、上記のものは釈迦の概念だ。

わたし以外のものではないなにか。ということは、「わたし以外のもの」を定義しないと、わたしが定まらない。じゃあ、わたし以外の世界とはどんなものなのだ。なんていうふうにロジックが展開されていくわけだ。ここで語ることはしない。というか出来ない。

お城ってどこからどこまでがお城なの?

わたしって、どこからどこまでがわたしなの?

そんなことを一瞬、数秒だけど妄想しちゃったんだよね。チケット売り場の前で。天守閣をバックに家族写真を撮影する頃には、そんな思考も消し飛んでいたけど。

とりあえずイタイやつだよなあ。

今日も読んでくれてありがとうございます。茶室で和菓子と抹茶が供されて、娘が抹茶を一口飲んで「おいしい!」って言うのにはびっくりした。「苦い」って言うかと思ったのに。おみそれしました。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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