エッセイみたいなもの

今日のエッセイ お茶が入ったよ 2021年3月19日

2021年3月19日

「お茶が入ったよ」「お風呂が湧いたよ」というのは、家族の中での会話としては一般的なものですよね。今日ね。お茶を入れていて、不意に「不思議な表現だよなぁ」と思ったのです。40年以上日本語として当たり前に使ってきた言葉なのにね。今日になって、です。
「お茶が入った」ってちょっと変なんですよ。だってね普通に考えたら、これから「お茶を入れる」という動作が完了したら「お茶を入れた」と過去形になりませんか。文に主語がないからわかりにくいのですが、「私がお茶を入れるよ」というのが元だとしたら、「私がお茶を入れたよ」というのが自然ですよね。というのは外語的な構成と同じ捉え方をするとこうなるはず。それが、あたかもお茶が勝手に入ったかのように「お茶が入ったよ」という表現がなんともおもしろいなと思います。

主語を入れた文を書き出してみると「私がお茶を入れたよ」って、なんだか嫌らしい感じがしますね。「私がやってやった」アピールがスゴイ。こんなふうに言われたら、正直ちょっと引きますよ。せっかくのお茶が台無しです。主語って、あれば良いってものじゃないんですね。これも新しい発見だ。
「お茶入れたよ」だったら、日常会話としては違和感がなさそうな気もしますね。実際にこういう表現をする方も入るでしょうし、変なアピールしている雰囲気もなく事実を伝えているだけに思えます。だったら、これで良いんじゃないかと。なのに、「お茶が入ったよ」と言うのが一般的になっているのはどういう「気持ち」や「背景」が隠れているんだろう。

もしかしたら、本当に「勝手にお茶が入った」と思っているのかもしれない。と言ったら言い過ぎか。僕もお茶も自然の一部として、その恵みが変化して摂取することが出来るようになった。つまり、自然が与えてくれたというような概念が含意されているというふうに考えたらどうだろう。宗教っぽい考え方に聞こえるかもしれないけれど、日本語が形成された頃は宗教で思想が出来ていたのだから、宗教色抜きに考えるのは難しいんですよね。この文脈で思考を進めると「天が僕とお茶とを結びつけてくれた」みたいなニュアンスになってくるので、「お茶が入ったよ」は「お茶が結びついたよ」という感覚で捉えられるかな。
想像の世界でしか無いのだけれど、そんな気持ちが「お茶が入ったよ」に含まれているとしたら、古代ロマンを感じてしまうよね。

ちなみに、店の中でこんな話をしたら「はあ・・・」と言われてしまいました。それはそうだろうね。神道なのか仏教なのかわからないですけど、哲学みたいになっていって。だんだんわけが分からなくなりそうです。ちょっとここらで、お茶を一服。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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