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今日のエッセイ どうなる和食?ご飯が減ってる日本 2021年6月10日

2021年6月10日

お米の消費量が近年でかなり減ってきているという話をよく聞きます。身の回りでも実感があるんじゃないかな。昭和生まれの人達どうですか?子供の頃はもっとごはん食だったと感じている人も多いかもしれないね。

かつては、食事といえばお米のご飯。それがイコールで結ばれるほどで、他の選択肢はほとんどなかったよね。だから、今でも食事のことを「ごはん」って言うでしょ。パスタを食べに行くとしても「おひるごはん」だ。もっとも「ランチ」「おひる」という言い方も定着してきたところをみると、お米離れが広がったなあという感じもするよね。

大きな理由のひとつには「パン」「パスタ」の日本定着が挙げられるよね。戦後になって、やたらとパン屋さんが増えたらしい。さすがにその時代のことを直接は知らないんだけど。相当増えたって。それで主食が一択だったのに対して選択肢が増えたっていう単純明快な理由もある。そりゃそうだけどね。それにしても影響が強すぎるんだよ。逆に元々がパン食の地域にお米が入っていっても、その半分がお米に置き換わっているという事例は聞いたことがない。そもそも、パン屋さんがこんなに増えていった背景も気になる。

これは、国民感情としての舶来品をありがたがる文化が生まれ始めた頃があって、その影響が今でも残っている、ということもある。そして、ここから日本の食文化が西洋化に傾いていくことになるんだけど、ここには「国家としての思惑」が強く働いているよね。更には、高度成長期からバブル期を経て現在へと移り変わる間も日本人がやってきた「働き方」が影響をしているし、その中で皆のために良かれと思って開発された「食品加工技術」も流れを加速させることになった。こうして育っていった日本化した洋食を至上のものとして刷り込まれた世代が、日本史上最大の人口比率をもつ団塊の世代だったから、そのまま定着していった。
「国家としての思惑」「働き方の変化」「食品加工技術」「団塊の世代」という4つの要因が少しずつ影響を及ぼしあって、お米の消費量の現象に繋がっているということだろう。

なんだか、米消費量の現象問題の話を始めたら急に重たい感じになってしまった。米食は縄文時代から続く食文化、もう少し大きい捉え方をすると社会構造を担ってきたものだから、ちょっと真面目に考えておく必要があるかもね。なんとなくアイデンティティーのひとつになっているような気もするんだよ。

日本人は米食文化が薄くなっちゃってるんだけどさ。その代わり、米食文化に支えられて進化してきた広義での「和食」がユネスコ無形文化遺産に指定されて以降、海外からの注目が高まってきているんだって。世界中の大きな都市で、日本料理店がないところなんかほとんど無いんじゃないかな。もちろん日本には数多の和食店があるんだけど、家庭で食べられている食事の半分が和食じゃなかったら、どうなんだろ。外国から観光客や転勤で日本に来てみたら、和食があんまり食べられていないとか。どんな感じなんだろうね。
フランスに行ってみたら、家庭の食事の半分が和食や中華やハンバーガーだったら、ちょっと寂しい気もするんだけど。あんまり気にならないのかしら。それはさておき、家庭で和食を食べる機会が減ると和食の母数が減るということになる。母数が減るということは、その技術や文化の底支えがなくなるってことになるね。そうカンタンにゼロになるってことは無いと思うけど、やっぱり食文化の継承というのは母数があってこそという部分もあるから、気がかりではあるね。

前にも書いたけれど、お米を美味しく食べるために発展してきたという側面もあるのが日本料理だ。お米を食べるという主軸が薄れてしまえば、当然日本料理の存在も変化を余儀なくされるかもしれないよね。無くなったからって、生命の維持という意味では全く問題ないのだけれど、一つの文化が消滅するかもしれない。食文化が消えると、社会構造や社会文化もそれに伴って変化していくよ。衣食住の文化が思考回路や社会構造に平橋を与えてきたというのは歴史が示すとおりね。

今日も読んでくれてありがとうございます。これから少しの間は、日本人の米離れについて考え事を重ねてみようと思います。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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