どうしてもこれ以上先には進んではならない。そういうものがある。
「ならぬことはならぬ」とは、会津藩の「什(じゅう)の掟」が有名かな。嘘をついたらいけないとか、弱い者いじめはダメだとか、卑怯なことをしてはならないとか。とにかく「ならぬ」と言ったら「ならぬ」なのだ。そこに理由や解釈など差し挟む余地はない。というのがこれだ。
子どもたちに向けた藩校の教え方だから、少しは強引なところがあるのかもしれない。とはいえ、世の中には理屈抜きにしても「ダメ」と言い切ってしまいたいものもあるわけだ。
ホントは論理的に話を展開しようとしたら、出来るはず。人を傷つけないとか、嘘を言わないとか。人間が集団になって社会を形成していくには、必要なルールなんだよ。そういうことを許しちゃうと、集団が乱れたり、酷い時には殺し合いになっちゃったりして良くないよね。みたいなことを、人類が少しずつ学んできた結果なんだろう。というようなことを事細かに説明しようと思ったら、たぶんどこかの誰かがやっているんじゃないかな。調べていないけれど。
嘘とか弱い者いじめだとか、卑怯なこと。これは、ことの度合いによってある程度許容されている部分もある。ガッチガチにしてしまうと、世の中がうまく回らないということなのかもね。天網恢々疎にして漏らさず。傷つけないための優しい嘘なんてこともあって、嘘も方便と表現されたりもするくらいだ。
「嘘も方便」ということわざがある。これが存在すること自体が、意味があるのじゃないだろうか。時として使い方によっては嘘もありだよねって、わざわざエクスキューズとして使用されているようにも思える。つまり、根底に「嘘をついたらいけない」という観念があるからこそ成立することわざなのだ。
だから、場合によって必要な嘘をつくときだって、後ろめたさを抱いている。なにかしらの言い訳をしながら、でも必要だと思うからごめんね。そんな気持ちでいるわけだ。そういうことってあるよね。
心持ちの問題かもしれないけれど、あまりにも正々堂々と「必要なことなのだから、この嘘は正義だ」としてしまうのはどうだろうか。
心の持ちようだけれど、心の持ちようみたいなことは、みんな敏感なんだよね。言葉の端々や仕草みたいなことから察知してしまう。開き直っている人の中には、正面堂々と「ならぬこと」をやるから、観察するまでもないのか。まぁ、時としてそういう人もいる。
ガッチガチに縛り付けてしまうと、社会がうまく行かなくなってしまうという「ならぬこと」
どうあっても乗り越えてはいけないとされる「ならぬこと」
これらが共存していて、社会の中で共通理解となっているはずだ。ということを前提に世の中は回っているのだとすると。ここから外れた場合は本当にダメということになるよね。
共通理解がどこまでの範囲で存在するかという問題もあるか。それぞれのコミュニティで異なった文化があるなら、「ならぬこと」の考え方も違った文化になっているのだろうか。
そういう差異があると、お互いに「正義の主張」をぶつけ合って喧嘩になる。ああ、だから教養というものが存在するのかもしれない。人類全体の共通の学びとしての道徳や教養。それを著している書籍や芸能や文化。既に長い歴史のなかで紡ぎ出されてきた事実を知って、そこから教養を学ぶこと。そうしたら、少しは理解が近づくのかもしれない。
互いの文化の違いもわかるし、互いの「ならぬこと」をわかる。納得なんてしなくてもいいけれど、そう思っているということを、まずは知るところからなんだろうなあ。
今日も読んでくれてありがとうございます。人類史で武力攻撃はろくなことがないということを学んだ。だから、現代では紛争があってもなにかしらのエクスキューズをしながらだった。それもダメなんだが。ロシアはとうとうエクスキューズすら放棄して攻め込んだよね。断固反対である。